天才の視点

大事な話があるんだ
http://d.hatena.ne.jp/teruyastar/20080310/1205207880


「論理的思考の破棄」


最初から最後まで論理的思考を限りなく0に近くすることによって、
障害をも0に近づけつつ、天才なみに全てのことを成していく方法。


元記事からすると、とても簡単で誰でもできることなのに
言葉で表すことが不可能なことらしい。



僕もこうやってブログに書いてるというのがすでに間違ってるし
まだわかってないということだ。


ただ、もう少し気になることを書いておきたい。


全てをこなすのと、一つだけこなすのとどっちが楽か?

これ、もしかして全てをこなす方が楽なんじゃないだろうか?



相互作用の話。
いわゆる「天才」というのはなんでも達成してしまう人が多い。
東大に現役合格しながら、部活でも県大会優勝とか。
趣味の分野で一目置かれてるとか、
親孝行やら、デートまでこなすとか。


努力型の天才で、
それだけに20年かけてNo1になるとかいうタイプの人もいますが
ここでは除外。


対して一般人は、天才のもちものと比べると
「何も手に入れられない」事が多い。



不公平過ぎやしないか?
人類は世界にひとつだけの花なんだから、
自分だけが天才を超える何かを持っててもいいじゃないか。
20年努力するとかじゃなくてさ(T_T)



で、思ったのは
『実は全部手に入れるほうが楽なんじゃないか?』ってこと。


ひとつに集中するにも、周りの全てがそれを支えてる


例えば、スーパープログラマーになりたいとしよう。
1日1万行組み上げるには、
なおかつ日常の行事や他の仕事までそつなくこなすには
どうしたらいいだろうか?



論理的思考の破棄はもちろん、
「キーボードを最高のものにしないといけないだろう」
「マウス・トラックボールだって自分に最適な物をそろえないといけないだろう」
「姿勢だって楽で、自尊心がわく、気が引き締まる姿勢がいいだろう」
「たまにリラックスできる場所も確保しておく必要がある」
「椅子だってつかれない最高の物を選びたい」
「自分を励ましてくれる自慢の彼女がいたら、最高の自尊心となるだろう」
「そもそも世の中が求めるソフトウェアを発見するのに、
たっぷり遊ぶ時間も取ってアンテナを広げないといけないかもしれない」
「これらが全部めんどくさくならないよう自動化したほうがいいだろう」
「食べ過ぎると思考が鈍るばかりか、メタボにもなるし、何より次の食事がおいしくなくなるし
 医食同源、食事にはずっと気を使うべきだろう」
「チームと最高のコミュニケーションを取るため、
 表情は柔らかく、眼も優しいほほえむのがいいだろう」
「常に良い気分でいるため、清潔でカッコイイ服装も大事だろう」
「英語だって知ってたほうが、海外文献漁れてずっと効率がいいだろう」
「講演や、別の業務仕事をこなせば、別角度からより理解が深まるだろう」


って、、、まあそんなことをいちいち考えるわけじゃないんだけど、
そういうイメージ。
むしろ全てを的確にこなすから、それがさらなる自分の自信となって
生きるのが楽しくて、こなすのが楽しくて、
勉強も、掃除も、恋愛も、仕事も、家族も、趣味も、
ピンからキリまで、それぞれがつながってて、それぞれに影響を及ぼしてる。



どれかひとつだけなんとかしようとしても、
その周りの影響で、そのひとつがダメになるかもしれない。
周りを良くしないと周りに時間や体力やエネルギーを吸い取られて
何もできないかもしれない。


でも、全部を同時に良くするなら、それぞれがつながって好影響を及ぼしたり
理科が地理に、地理が社会に、社会が国語に、国語が英語に、英文法が数学に、数学が理科に、
これが、恋人でも仕事でも趣味でも友達でもネットでも、みんなうまくつながってるかもしれない。
全部を同時に楽しむのが、実は一番楽なのかもしれない。


何でも楽しいという友人
http://anond.hatelabo.jp/20070823233243


「どんな事でも楽しいよ。そりゃ最初から全部楽しいわけじゃないけど、
どんな事でも、世界に一人はそれを楽しいと感じてる人がいるわけじゃん。
どんなマイナースポーツでも、どんなマイナーな趣味でもさ。
それだったら俺も楽しめるなって思うんだよ。
楽しんでるその人がどういうところで楽しんでるのかって思いながら
楽しいんだって軽く思いこみながらやってるとそのうちマジで楽しくなってくるし、
楽しさがわかってくる。
どういう所を楽しいと感じているのかってのが。
基礎知識をある程度詰め込めば、それなりになんでも楽しくなるよ」



「でもその基礎知識を詰め込む時点では面白くないわけだろ?」



「まぁ、その時点ではその事に対して面白くて仕方がないってわけじゃないよ。
でも、未知のものを知っていくっていうのは、楽しいことだよ。例えばサッカーを全然知らなくて、
サッカーについて知ろうとしてるとき、
そのときはサッカー自体について楽しくて仕方がないってわけじゃないけど、
全然知らなかった未知のものについて、おおまかでも概要を掴むっていう動作が楽しいんだよ」


「それ楽しいか?」


「楽しいよ。概要を掴むとか、体系化するとか、そういうことが俺大好きなんだよ。
段々世界を把握できていく気がして、すっきりする。
怖いのは、そういう事をしていって、ついに知ることがなくなったらどうしようって事だけど、
でも今の時代そんな怖さは全くないから。無限にある。いつまでもある」


「そういうもんかなあ」


「うん。そんで、大体概要が分かると、細かい事も知りたくなってくるんだよ。
あと、日常でも、今まで見えなかったことが見えてくる。これは比喩じゃなくて、
さっきのサッカーのことでいえば、今まではネットでサッカー関連のニュースがあっても、
たとえ目がそこに向いても実質見えていない状態だったりするわけなんだけど、それが、目に付くようになる。
「あれ?サッカーの事ってこんなにやってたっけ?」って気付き始める。
そうすると、また知るだろ。そんで、知ると、また知りたくなる」

感覚的思考に、「カッコイイ」という基準


感覚的にカッコイイ奴を演じていく。
感覚的だから細かく考える必要はない。
今この瞬間、
キーボードを打つ自分を、マウスを操る自分を、
ケータイを操作する自分を、
人としゃべる声を、他人を見る目を、
生きる姿勢をカッコヨクするイメージ。
カッコヨク全てをこなすイメージ。


完璧である必要はなく、
成長しながら、全てに現時点でベストな処理をするカッコイイ自分。


眼はきちんと見開いて、
動作はなぜか素早く的確で、
歩く速さもなんかウキウキしてて、
侍や、ブルース・リーみたいに姿勢が整っている。
それなのになぜかすごく落ち着いている。。。。



仮にでもそう演じるのはすごく簡単なことだ。
このときはかなりフローに近い気もする。
じゃあ、もし24時間それを忘れずにカッコつけ続けるのを楽しむ人がいたら?




同じタンパク質の固まりである、天才と凡人のありえない格差社会
生きる姿勢の違い。
実は天才の視点で生きるほうが、ずっと楽しくて楽なんじゃないだろうか。


別にそのために生来の天才である必要はなくて
天才が見るであろうカッコイイ自分の世界と同じところに目線をあわせとくぐらいでも。