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賢人が月を指差した時、愚者はその指を見た。


「自分探し」にとどめを。 - teruyastarはかく語りき
http://d.hatena.ne.jp/teruyastar/20110310/1299788070


…の前回記事から、
「自分はどこにあるか?」という答えを深く掘り下げ、
「心はどこにあるか?」
「社会はどこにあるか?」
「お金はどこにあるか?」
と考えを拡張しつつ、
ずっと指を見ていた僕が、月を見るようになったとき
まったく同じものを見てたのに、
世界のあり方が変わって見えた。
という話をしてみます。


とりあえず結論から。


僕はずっとこの後半部分の
「指」と「月」の意味がよくわからなかったんです。



これ、お釈迦様が元ネタだったんですね。

禅の奥義「指月」
http://www.surugawan.net/guide/38.html


禅の世界では、経典などはその方向性は示すものの、
言葉では本来の釈迦の教えは伝えられないとし、
文字や言葉による伝達を避け、座禅にひたすら励むことにより、
以心伝心、お釈迦さまと同じ域に達し自ら悟ることを目指しています。


その例えとして、「指月」が用いられ、月を指す「指」を経典に、
その延長線上にある「月」を仏の教えとし、
月に辿り着くことがすなわち悟りの境地としています。


「月」(仏の教え)を知る上で、経典はあくまでも「指」であり、
その方向を示す便宜的なものであり、
決して「月」そのものではなく、
あくまでも座禅により以心伝心、
自らが「月」に辿り着くことが重要であると説いています。


前回の自己啓発書であれば、
自己啓発書「指」であり便宜的なものであり
決して自己実現そのものではなく、
あくまで自分の歩みで「自己実現」に辿りつくのが
重要ということでしょうか。


で、僕が思う「指月」の解釈(表現の仕方)は
ちょっとそれと違ってて

月を観測することで、月もこちらを観測している
指や月にたいした意味はなく、それをつなぐみえない空間に世界がある

という風に今は解釈(表現)してます。
なんのこっちゃ?
と、いうことで順をおっていきましょう。




「自分とはどこにあるか?」の前にそのもっと奥、

心はどこにあるか?

哲学者や科学者が言うことのアレンジ解釈で、

「心は細胞と細胞のつながりにある」

細胞とミトコンドリアでもいいですが、
要は、60兆の細胞同士にエネルギーが流れる瞬間瞬間に、
「心」を生み出すと僕は解釈しています。


この場合、主に血液や電気信号ですね。
脳に心があるわけじゃない。
手で熱いとか痛いとか感じる外部の信号も
直接心に反映される。
食べ物を溶かす腸が、
「腹減った」「お腹いっぱい」「今はこういうモノ食べたい」と
脳へ指令を出すことも多い。
ひとつひとつの細胞の力は微弱ですが、
60兆の瞬間瞬間のエネルギーが、
大きなうねりとなって「心」になる。


でも、腕を切り落とされたりして接続が切れたり、
エネルギーの流れが止まってしまうと、
細胞は細胞のままなのですが、
もうそこに心はないわけです。


人が臨終して、エネルギーの流れが止まっても同じ。
細胞はまだそのままなのに、心が亡くなる。
心が亡くなればいずれ細胞も死ぬわけです。



心からひとつ抽象度を上げて、

「自分」はどこにあるか?


これも
「人が人を観測する瞬間」にしか「自分」は生まれない
と思います。


で、アニメとか漫画でもよく引用される話ですが、
「自分から見た自分」
綾波からみた自分」
「アスカからみた自分」
ミサトさんからみた自分」
「父さんから見た自分」
「ブログでの自分」
twitterでの自分」
「仕事場での自分」
これら複数の自分は、全部「同時に存在」するわけです。
決して「自分のありかた」は一つじゃない。
「観測者の数」だけ自分が同時に存在します。
常に不確定な自分は、今どの自分か「観測者との関係」が決める。
絶対的な自分はどこにもないわけです。


自分の読み方も、時と場合に応じて
「おれ」「わたし」「ぼく」「じぶん」「てるや」「わし」と、
変わることがあるでしょうし、
人に呼ばれるとき、ニックネームでよばれたり、
それが小学生のときの友達から呼ばれるニックネームや、
中学生のときのニックネーム、
高校生、大学生、社会人になっても
先輩、同期、後輩で、呼ばれ方が変わったりします。



もう少し抽象度を上げましょう、会社、法人を飛び越えて、

「社会」はどこにあるか?


会社とか、工場とか、家、店、役所等々、
国のいろんな細胞や臓器があるわけですが、
「物流」として、車、歩行者、電車、飛行機、船と、
さまざまな「動脈」が流れてますね。


また、
「通信」という、電話、FAX、携帯、インターネット等々
いろんな、「電気信号」が流れてますね。
流れた瞬間に「社会」が発生して、
膨大な物流や通信のうねりが意思を持った街と考えます。


特にインターネットというのはまた、
他の通信よりも濃密な次元で、
パソコン通信の時代、
ホームページの時代、
掲示板の時代、
ブログの時代、
SNS,Twitter の時代と、
どんどん、細胞の密度が細かくリアルタイムになっていって
その膨大なアクセスが、ときに個人の想いを超えた、
つながりそのものが意思を持ったような、
暴走や祭りや喜怒哀楽に観えることもあります。

フラクタル


粘菌による迷路探索 ― 強化学習 (?) (カナダからのブログ)
http://www.kanadas.com/weblog/2008/06/post_498.html


脳のない単細胞生物でも「学習効果」を備えてるのは、
そこに膨大なネットワークエネルギーが流れてるからではないか?



無機物は自分からエネルギーを流すことができず、
植物だと、エネルギーの流れがゆっくりしすぎて
長い時間をかけないと大きなうねりにならない。


昆虫だと60兆もの細胞はないけど、
充分な学習効果と、その社会性を構築できるわけです。



粘菌の輸送ネットワークから都市構造の設計理論を構築―都市間を結ぶ最適な道路・鉄道網の法則確立に期待―
http://www.jst.go.jp/pr/info/info708/index.html


リンク先の写真を見てみましょう。


脳細胞画像と宇宙構造画像が似すぎている件 : ギズモード・ジャパン
http://www.gizmodo.jp/2009/06/post_5621.html


原子核が太陽、電子が地球だと考えると、原子の構造と、太陽系の構造ってとてもよく似ていませんか?
http://qanda.rakuten.ne.jp/qa527847.html


なんとなく世の中がフラクタルに見えてきませんか?



といっても宇宙へ話を拡張すると戻ってこれないので、
別ベクトルでさらに抽象度を上げて、、

「お金」はどこにあるか?


日本銀行ホリエモンのところにあるんだろ」
というのもまあ正しいかもしれませんが、
この哲学の流れだと、
お金自体が意思(心)を持ったエネルギーであり、
まるでイナゴの大群のようにバブルや、
サブプライムや、ドバイや中国を喰い荒らすものと解釈します。


お金が自体が意思(心)を持ってつながってる。
ということは、自分がお金を持ってる必要すらなく、

使うところにお金が流れる

指と月の間にも、お金が流れてるという事です。


…意味分かんないですねw



ちょっと抽象度下げて、

「経済」はどこにあるか?

というと、「お金が流動してるところ」になるわけです。
逆にタンス預金とかは完全にネットワークから分断された、死んだ金です。


もちろん物理的価値がないわけではないですが
「経済」の生き死にに関わるのは、
お金が観測され、エネルギーとして流通してるかどうかです。


で、みんなお金をほしがったり貯金したりしますが、
「死ぬ直前までに100億貯めてやる!!」
という人生を目指してるわけじゃないですよね?
そんなことしても税金でもってかれるだけですし。
死んでも天国へは1円だって持っていけない。
本来お金は「どう貯めるか?」より、
「どう使うか?」の方が重要と言われるわけです。

お金は「目的」ではなく、「手段」である。


必ずしも「お金」を自分で持ってる必要はない
というのは、
(哲学的比喩。お金大事よ。)


「手段」としてお金を使うとき、
本当にそれが他人にとっても面白いもの、
つまり「心、人、社会、経済」が「観測して喜ぶもの」であれば、
必ず誰かが出資してくれるからです。
自分が持ってなくても、
お金が必要なことろにお金が発生するわけです。



これは哲学的な話じゃなくても、
実際サラリーマンはどんな企画をやるにせよ
会社にお金を出してもらっていて、
ベンチャー起業はベンチャーキャピタルからお金を出してもらい
株式会社は、銀行や株主にお金を出してもらってるわけです。



まあ、自分が出資してないと、
そんな極端に儲かるわけではないのかもしれません。
でもそれで面白いことはできるし、
見えない観測価値も高まるわけです。



自分が明日死ぬか、50年後に死ぬか分かりませんが
人生でお金を「目的」として観るか、
お金は「手段」であると観るかで
全く生き方が代わるような気がします。



さらに抽象度を上げると…

あなたは2次元美少女を「観測」しているが、2次元美少女からもあなたを「観測」している。


そう、「やっぱり俺の嫁はみつめてくれてたんだな♪」という話です。
(あとで病院行ってきます)


人と人の間に「複数の自分」が「同時に存在」する。
でしたが、極端に言えば生命体でなくても
「物体」と「物体」は「観測」され合う。
ゆえに「全ての物体」は「生命」であり「情報」なんです。


ネットだと分かりやすいですかね。
このブログに書かれてる文字はただの無機的な情報で、
僕とあなたが対面してるわけではないのですが、
じゃあこのブログ記事があなたを「観測」してるのか? というと、
ちゃんとアクセスログ」が残るわけです。


いや、Javascript切ればいいとか
プロキシサーバー通せばいいという話でも
別に身元たどるわけでもなく、
はてなAkamaiGoogle などに
なんらかの足あとは残り、その足あとが微妙にでも影響する。


その小さな足あと一つが、
アマゾンの蝶の羽ばたきのひとつでシカゴに大雨が降る
バタフライ・エフェクトのように
超微力な観測でも、なんらかの影響がある。


あなたがあずにゃんを愛するわずかな行動が、
いつか大きなうねりとなって映画化や、
もしかしてアニメ第3期となって新たな命を息づくかもしれない。
(卒業したから無理かw)



みんなが求める「物体」や「個人」に価値があるのではなく
「個」を「観測(アクセス)」、した瞬間のみにこそ
「価値(心)」が発生します。



こう言うと、
「いや、観測した瞬間とか、
そんな目に見えない抽象的なもの追いかけてどうするのよ?
お金や個人が観測というエネルギーを出すのなら、
大元のそれを押さえるのがずっと現実的だろ。」
と、いわれるのはもっともなのですが、
「個」を見るか、みえない「つながり」を観るかで、
同じ物を見ても引き出せる情報量が違う気がするのです。


世界はあなたの心でしか知覚できないのだから、
あなたが知覚してない物は、
何かに観測されてそこに存在していて、
あなたの世界に存在しないという
複数の観測情報が決定されずに並行してあると考えると
物事や、人の心や、自分の心でさえ一面的ではない、
矛盾しまくる多数の視点がすべて同時に存在します。



その多数の視点から自分の世界を観測するのが
自分という観測者なわけです。


まとめ


僕は、ただの「指」である「自己啓発書」ばかり見ていました。
それにはたくさんのヒントや哲学が書かれていたのに、
その「指」が指し示す先を、なかなか見ようとはしませんでした。


僕は、いつの日かそれを理解し、「指」の指し示す方向、
そのずっと先にある「栄光の月」を「お金」としてみていました。
あそこに辿り着けば、「栄光」が手に入ると。


だけど違ったのです。
「指」にも「栄光の月」にも意味はありませんでした。
ただ2つの物体の間にある見えないつながり。
それは友達でも、恋人でも、家族でも、
好きなら例え2次元でもよかった。


世界はこういう物だと、
親や、教科書や、TVや、先生や、常識が教えてくれたのは
ほんの小さな一面に過ぎず、
僕の「指」が指し示す、僕の「観測」によって
世界は作られていったわけです。



Fly me to the Moon 歌詞和訳 ‐ ニコニコ動画(原宿)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6900270


Wait&See〜リスク〜



ブッダ全12巻漫画文庫