teruyastarはかく語りき

TVゲームを例に組織効率や人間関係を考える記事がメインのようだ。あと雑記。

人生はクソゲー

自己肯定とかどうすりゃいいの

なにをどうしたら息を吸ってるだけでオッケー!!って思考回路になるの?
運動瞑想睡眠野菜350g以外で


まず人生はクソゲーなんですよ。
遺伝子パラメーターからランダムで、容姿が選べなくて、親が選べなくて、国が選べなくて、人種が選べなくて、性別が選べなくて、スタート時点での所持金(家が金持ちかどうか)で、受ける教育や生活の余裕も変わってくるわけで、国によっては満足な教育も医療もなく内戦で大混乱だったり、こんな超絶理不尽なゲームはないわけです。


では、「クソゲー」って概念はなぜ生まれるかというと、神ゲーと比較するからなんですね。神ゲーがあるから対比としてクソゲーという概念が生まれます。もし世の中に「クソゲー」しかなければ「クソゲー」という概念は生まれません。


例えば、ファミコン初期に出た「忍者ハットリくん(100万本以上の大ヒット)」「アトランティスの謎」「スペランカー」「いっき」などは今の基準からするともれなく「クソゲー」なんですね。でも、当時は「TVゲーム」そのものが新しい体験であって、全てのソフトが新しい世界でそれぞれ違ってて、どれも理不尽だったけど、どれも楽しかったんです。この時代に「クソゲー」という概念はありませんでした。ただ単純に「やさしいゲーム」「難しいゲーム」「ボリュームの少ないゲーム」「ボリュームの多いゲーム」といった基準しかありません。ゲームとして存在してる以上、それはなにかしら楽しみ方はあるわけです。

ファミコン版「ゴーストバスターズ」の話、ないし「面白くない」をせめて自分の言葉で語って欲しい、ということ: 不倒城

いや、「面白いか面白くないか」で言えば、多分面白くないんですよこのゲーム。今の視点で遊べば十二分に面白くない感が楽しめますし、当時の視点だってそこまでは面白くなかったかも知れません。そこに異存はないんです。

ただ、正直言いますと私このゲーム大好きなんです。すげー好きなんです。

人生はクソゲーって言うのも、他人との比較なんですよ。自分は他人より劣ってるとか、自分は他人より恵まれてないとか、自分は他人より苦労しないといけないとか、そういう比較ばっかりするとどこまで上に上がってもクソゲーのままなわけですね。上に上がっても過去の報われなかった自分にコンプレックスを持って何度も思い返しては自分を傷つけるとか、今は良くても未来の事がずっと不安で周りに当たり散らすとか、過去や未来とまで比較する人はさらに超絶クソゲーになってしまいます。日本に生まれて教育を受けるチャンスがあるというゲタを履いても(だからこそハングリー精神や普通から外れる事を恐れて)、こういう比較ばかりしてたらクソゲーにしかならないです。

では、どうやってこのクソゲーを楽しむか?

クソゲーが「神ゲーと比較して楽しくない」のは、超難易度だったり、チュートリアルも整備されてなかったり、バグがあったり、クリアしてもゴミみたいなエンディングしか用意されてなかったり、やるだけ無駄に感じるからですね。これは楽しくないです。無理やりやってたらクソゲーで過労死します。

そんなクソゲーでも、自分の設定した課題に対して試行錯誤してる間は楽しめるんですよ。

神ゲーの場合だと、バイオハザードでナイフのみでクリアするとか、メタルギアソリッドで敵を1人も倒さずクリアするとかありますが、製作者が用意した以上の自分なりの楽しみ方というしばりプレイは楽しいんですね。

クソゲーなんて、今さら誰もやりたくないわけで、超難易度で理不尽なことだらけでやるだけ無駄なんですけど、そんなクソゲーにこそ、クソゲーだからこそ自分からあえて挑戦してクリアを目指すのは楽しいわけです。僕も「デスクリムゾン」という歴史的クソゲーをみんなでツッコみながら遊ぶのはとても楽しかったです。(クリアはできなかったですがw) ゲームセンターCXやニコ生のゲーム実況放送なんてまさにそうですよね。クリアできるかどうかはどうでもよくて、チャレンジして試行錯誤してる間が楽しいわけです。

これ、逆に考えると

他人に課題設定されたものをイヤイヤやってると人生はクソゲーになる

いつのまにか他人の目ばかり気にして、同僚とか、クラスメイトとか、親とか、先生とか、上司とか、親戚とか、この歳で、この学歴で、この会社で、平均収入として、こう生きなくてはいけない、この給料でこれだけ成果をださなくてはいけない、「普通はこうだ」みたいに全部他人の目で人生の全てが課題設定されてると、かなり理不尽なクソゲーですよね。それが全部「誰かとの比較」なんですから。その「誰か」は連射パッド使ってたり、初期パラメーターがチートだったり、その人だけ知ってるバグでお金増やして、平均水準や中央値を上げたりしてるのに。

だから、リーマンは脱サラして起業しましょう。学生は退学して独学、親とは絶縁して、家族とは離婚してやりなおしましょう。ということじゃないですよ? (もちろん時にはそうしたほうがいいこともありますが。)

今ある他人から突きつけられた課題を、「それを上回る課題に自分で書き換えたらいい」わけです。「あえてクソゲーに挑戦する」つもりで。そうして初めて自分自身の課題設定になります。もちろんその課題をこなすためのつまらない教科書やマニュアルはあるはずなんですよ。でもそれを突き詰めて究極プレイで最短クリアするぐらいのつもりでやるなら、その教科書やマニュアルにはない細部まで自分で考えねばならず、そこまでつきつめればいつか自分なりの何かの哲学にまで到達するはずです。

「生きてるだけで丸儲け」の意味 - teruyastarはかく語りき

僕らがスーパーマリオを楽しんだのは、「ピーチ姫を助けました」という「結果」が欲しかったわけじゃない。

エンディングという「結果」が見たいわけじゃない。
どうせ次回作でまたさらわれるピーチ姫なんてどうでもいい。
もちろんなんの生産性もない。
それでも助けるために冒険するという
その「過程」にこそ「価値」があり、そのゲームを遊ぶ「意味」がある。

昔の記事にも似たようなこと書きましたが、クソゲーをクリアするかどうかはどうでもいいんですよね。このクソゲーは何かしら自分で設定してそれにチャレンジしてる間が一番楽しいわけです。結果が失敗か成功か、儲かるか儲からないかはどうでもいいです。そこに誰との比較もありません。そのチャレンジを楽しんだらそれだけで勝ち組です。

ただ、その試行錯誤を楽しめるならもうそれは努力ではなくなります。努力する人より、楽しむ人のほうが体力や精神力をすり減らさず試行錯誤の量が相対的に増え、チャンスがより多くなり、クリアする可能性は高くなるでしょう。

自己肯定とかどうすりゃいいの

なにをどうしたら息を吸ってるだけでオッケー!!って思考回路になるの?
運動瞑想睡眠野菜350g以外で

なので「息を吸ってるだけ」とはいきませんが。他人が設定した課題ではなく「自分が設定した課題にチャレンジしてる間」は「自分で課題を上書きしてチャレンジしてる間」は、自己肯定するまでもなく、オッケー!!って感じですよ。

クソゲーを楽しめる人

明石家さんまの感覚はクソゲーを楽しめる人に似てる気がしますね。

ほぼ日「さんまシステム」の魚拓まとめ - teppeis blog
http://teppeis.hatenablog.com/entry/20090107/1231342772


【魚拓】ほぼ日刊イトイ新聞 - さんまシステム-ハズレをつかむ快感
http://s01.megalodon.jp/2008-0205-1545-10/www.1101.com/suimin/samma/2008-02-01.html


糸井
つまり、さんまさんが
望んでやってることのほとんどは、
ハズレくじをつかんでるという
時間なんじゃないですかね。


さんま
ああ、はい、はい。


糸井
動物もののドキュメンタリーを見るのも、
スペインのサッカーを見るのも、
手でこう、くじをつかんで、ハズレを引いて、
何回も何回もハズレを引いて、
やっと当たりを見つけたい、みたいなことで。


さんま
そうそうそうそう。
だからね、宝探しとか好きなんですよ。
オパール探しとか、砂金とか、
すっごい好きですね。
あの、ハズレをつかむ快感というか‥‥。


糸井
うん、うん。


さんま
はい。いやもう、絶対ぼく、そうですね。
あの、そこを楽しみたいと思って生きてる。


糸井
はい、はい。


さんま
だから、ダメなのに追い続ける。
さっき出てきた
『ロードランナー』じゃないですけどね、
あれに出てくるコヨーテの生き様に
心打たれたりするのは、そこなんでしょうね。
追いかけて行って、ダメなときのほうが、
やっぱり、楽しいですね。


糸井
ハズレのほうこそ愛おしい、みたいな。


さんま
はい。あの、だから、
ギャンブルなんかでも、調子いいときは
もう勝手に(勝ちが)来るんで、
おもしろくないんですよ。


糸井
ああ、はい。


さんま
ダメなときにどう打つか、っていうほうが、
やっぱり楽しいですね。


糸井
なるほどね。


さんま
「負けたわ、今日は」って言いながらね、
「‥‥でもほんとうは、
 もっと(負け分が)行ってたな」って
思うときのほうが、勝った感があるんですよ。


糸井
あと、負けたんだけども、
拍手を送りたくなるような手で負けて、
「おまえ、それをやったの?」っていう
ときなんかはうれしいですよね。


さんま
それはありますね。
「あ、こうやったか」っていうね。


糸井
そうなんですよねぇ。


さんま
だから、競馬なんかでも、
昔の騎手の福永(洋一)さんなんかがね、
人気のない、ダメな馬を、
バーンっと行かすのがすっごい好きでしたね。


糸井
なんでしょうね、そういうのってね。


さんま
なんなんでしょうね。
もう、「だめもと」で「いてまえ」が
やっぱり、好きなんですよね。


糸井
なるほど、なるほど。


さんま
だから、あの、マラソンで、
完走目的で走る人の気持ちは
ぼくにはわからない。


糸井
勝負だから。


さんま
勝負ですから。
たとえ、5時間くらいかかる人でもね、
「しかけろ」と。


糸井
(笑)


さんま
競技なら、しかけろと。とにかく。
しかけろというか、あの、
しかけてほしいんですよ。


糸井
うん(笑)。


さんま
ほんとうに健康のために、
ただ趣味でやってらっしゃる方は別ですよ。
でも、競技に出て、
「1位になったら金メダルですよ」
っていうなら、やっぱりね。


糸井
しかけろと。


さんま
そういうほうが、
マラソンがおもしろくなるなぁと
思いますね。


糸井
しかけてハズレてもいいから。


さんま
そうなんですよ。


他人や世間の目を気にして、結果ばかり気にしてては、クソゲーを楽しむリスクなんてとれないですね。その価値観だと結果がでないと不毛になったり、無意味になったりしますしね。お笑い芸人が「ハズレ」に対してリスクを取れるのは、それが全て「話のネタ」に転化できるからだと思います。面白くないことがあっても、ラジオで話したり、番組で面白おかしい失敗談に味付けしてしまえば昇華できるから、失敗もネタになるんですね。これは、僕が「デスクリムゾン」をみんなで楽しんだり、ニコ生でゲーム実況する人も失敗をみんなで笑える仕組みだと思います。

自分を客観的にみて、クソゲー実況者だと思ってTwitterやブログに失敗を語ったり、10年後の話のネタにしようと楽しんでみるのもいいかもしれませんね。