teruyastarはかく語りき

TVゲームを例に組織効率や人間関係を考える記事がメインのようだ。あと雑記。

地域の教育改革に200億あったら何に使うべきか?

元記事長いのである程度要約。翻訳感謝。
物語として読み応えあるので時間ある人は元記事をぜひ。

フェイスブックのマーク・ザッカーバーグが、治安の悪いニューアーク市の教育改革に100億近く出して、改革に200億集まり、そこに本気で取り組んだ市長はこう使ったけど結果は散々だったようです。

シリコンバレーのエンジニアが語る、誰にも悪気はなかった話 | 上杉周作

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約9000万ドルは、雇用改革に使われた。組合の買収、教員の退職金などである。

しかし、「教師をクビにするなら、『若い』順からクビにしなければいけない」という法律が守られるなど、抜本的な改革はできなかった。そして、組合買収の効力は3年で切れてしまった。

約6000万ドルは、チャータースクール(学費無償の私学)の初期投資に使われた。チャータースクールは充実したが、従来の公立校は逆に衰退した。

約2000万ドルは、コンサルタントの報酬に使われた。

2億ドルの残りは未使用か、その他の小さなプロジェクトに使われたが、現場に届くことはなかった。

そして2億ドルは、ニューアークの学力向上にほとんど寄与しなかった。寄与するどころか、公立校の学力テストの点数は下がっている。雇用改革も中途半端に終わり、「成功モデルを作り、アメリカ全国に広める」ことも、掛け声に終わった。

ニューアークギャングのボスですら市の教育に嘆く状態に、権限をもった知事と市長が本気で教育改革に取り組んで、マーク・ザッカーバーグが資金を入れる。公立で給与年功序列ではなく「学校経営と教師にも競争原理を!」という目論見だったようですが見事に失敗。

教育労働組合とそれを票田とする政治、教育補助金と年功序列と法律など、知事と市長をもってすらこの改革を実現するには腐敗の仕組みがひっくり返しきれないところまでガッチリ固まってます。

反対派だったバカラ校長の意見は本質をついてます。

— 住民のみなさん、教育者としてひとこと言わせていただきます。ブッカー・クリスティー・ザッカーバーグの計画は成功するわけがありません。ニューアークの生徒の学力が低いことの根本的な原因は、貧困にあります。ザッカーバーグらは貧困の影響を完全に無視し、学校に全ての責任を押し付けている。「教育の仕組み改革」よりも「貧困の対策」を優先しない限り、何も変わらないでしょう。

「教育」がないから「貧困」になり、「貧困」だから「教育」ができない。
しかしここでの「貧困」は、この改革で窓際に追われたような、まともなレベルに達してない教師や親のこと。

「貧困」は単純に経済状況のことではなく、大人の人生に対する諦めや希望のなさが子供に伝播している心の病のことです。

市長達は任期3年だから、既得権益に邪魔されないうちに一気呵成に改革を急ぎ失敗しました。別の例として教育困難地域のニューアークによい先生を派遣するNPOティーチ・フォー・アメリカの地道な例。

リー先生とヘイグッド先生は、組合の意向や雇用規制を気にせず、私立校のように自由に先生を雇ったり、全くやる気のない先生をクビにできないか、教育事務局に掛け合った。「雇用の流動化」というやつである。リー先生によれば、エイボンにいる先生のうち3分の1は能力があまりに低く、できれば新しい取り組みに関わってほしくはなかった。

しかし、教育事務局は彼らの懇願をスルーした。

— はじめはリー先生とヘイグッド先生を見て、「誰だ、こいつらをわたしの学校に入れたのは?」と思いましたよ。しかし、二人が連れてきた教員支援員にわたしの授業を見てもらったら、まるで魔法のように、わたしは指導が上達していきました。やがて、「二人がやろうとしてる改革は間違いない」と思うようになったんです。

さらに、リー先生とヘイグッド先生は、エイボン校の生徒の親も巻き込んだ。

親の多くは「うちの子は落ちこぼれだ」と諦めていたが、リー先生とヘイグッド先生はすべての家庭を訪問し、「お子さんは変われる」と説いた。すべての先生に「親子で今晩やってほしい学習活動」を毎日三つ用意させ、家庭の協力を求めた。

そうやって少しずつ、エイボン校に関わる人たちの目線は高くなっていった。

アリフの話
前略

アリフはここでも暴れていたが、やがて観念し、カールソン先生に心を開いた。

— アリフ、本当のことを言って。どうして、そんなにクラスで暴れるの?
— だって、授業がまったくわからないんだもん。暴れてクラスから追い出されれば、おれがバカだってみんなにバレないでしょう?

カールソン先生は、もしやと思い、14歳のアリフに8歳向けの読解テストを受けさせてみた。その読解テストで、アリフは赤点をとった。エイボン校は今までアリフを無条件に進級させていたため、アリフが小学校2年生レベルの国語力で躓いていたことに誰も気づかなかったのだ。
それから、カールソン先生とアリフの怒涛の個別指導がはじまった。

— カールソン先生、バスケがしたいです。大学でプレイして、プロになりたい。でも、言葉が読めないと大学に行けない。プロになるにも、契約書に書いている言葉が読めないと、スポンサー企業にカモにされてしまう。だから、言葉をもっと読めるようになりたい。

カールソン先生はアリフの言葉に心をうたれた。アリフはこれ以上留年すると、高校にあがったときに年齢制限でバスケ部に入れなくなる。彼の夢を壊してはならないと、エイボン校の先生たちは総出で彼の支援にあたった。以前までのエイボン校ではあり得なかったことだ。

— あなたの国語力は、以前は小学校2年生レベルでした。それから一年もたっていません。アリフ、今のあなたの国語力は、ほぼ中学2年生レベルです。

言葉を失ったアリフと母親の前で、カールソン先生は続ける。

— 本当によく頑張ったね。この調子が続けば来年にでも高校に進学して、バスケをやれそうですよ。

その言葉は、やがて現実のものとなった。

これは小さな成功例。
だけどアメリカ全土に広げる価値のある成功例でもある。


もうひとつチャータースクールのひとつスパーク校の取り組み。

スパーク校は、幼稚園の全クラスに先生を「二人」配置した。ひとりは授業をすすめ、もうひとりは授業についていけなくなった子の面倒を見る。

また、幼稚園の全クラスに「助手」が配置され、教育以外の雑用をこなした。この「助手」は教員免許を持つどころか、大卒でなくても構わない。従来の公立校では、規制のせいで不可能なことだ。

さらに、スパーク校はソーシャルワーカーを3人配置し、問題行動を起こす生徒の面倒をみた。従来の公立校ではソーシャルワーカーに予算はあまり割かれない。

(Wikipediaによる定義:「ソーシャルワーカーとは、生活する上で困っている人々や、生活に不安を抱えている人々、社会的に疎外されている人々に対して、関係を構築し、問題解決のための援助を提供する専門職の総称である」)

ニューアークの公立幼稚園から、スパーク校に転職した先生はこう語る。

— 前の職場では、心にトラウマを抱えている生徒がクラスで騒ぎだすと、授業を中断せざるをえませんでした。しかしスパークでは、助手の方がすぐソーシャルワーカーの方を呼んでくださり、別室に子どもを移動させ、何が騒ぎだす原因だったのかを探ってくれるんです。

加えて、スパーク校は「親の援助」のスペシャリストも雇った。不安定な子の親は不安定なことも多い。その親を安定させ、家で子どもの学習を見てくれれば、子どもの学力も上がる。公立校では「教員が授業以外のことをやるなら業務時間外にしろ」という規制があるが、スパーク校では「親の援助は業務時間の一部」という扱いなのだ。

スパーク校の「親の援助」は下っ端から校長まで徹底されていた。

ある日、生徒の母がDVの被害にあい、全身アザだらけで学校にやってきた。そこで校長が自ら母親を病院に連れていき、次に警察に連れていき、最後には裁判所に連れていき、弁護士を雇う手続きをしてあげた。その弁護士は「裁判所まで生徒の親に付き添う校長は初めて見た」と感心していた。

スパーク校は結果も出した。とある幼稚園のクラスでは、入学前に年相応の読解力がついていた子は6人に1人だった。しかし、スパーク校で一年を過ごした子どもたちは、ほぼ全員が年相応の読解力を身につけ、3人に2人は平均以上のスコアを取ることができた。

NPOティーチ・フォー・アメリカと、このスパーク校の取り組みは似ていて、「親や先生をも巻き込んで人生の希望を見せる」ことに積極的です。じゃあチャータースクールが成功だったかというと、チャータースクールはピンキリで大失敗の学校もあったので、市の平均的な成績が上がらず、チャータースクールが必要な家庭環境の子供ほど、親がそもそもめんどくさがって手続きしない闇などが元記事にあります。もっと長い期間でみたらスパーク校のようなチャータースクールが生き残って、ダメな学校が淘汰されていくからザッカーバーグ達の方針も決して間違ってたわけではないのかもしれません。

バカラ校長の話、ティーチ・フォー・アメリカ、アリフの話、スパーク校、これだけ条件が揃ってたら200億を何に使いますか?

法律が許すならNPOやスパーク校にならい、公立学校のまま新しい有能な先生を臨時で雇い、今の教師を「助手」にして2人先生の体制で新しいやり方を身近で学びなおします。

また、適性がある先生には勉強してソーシャルワーカーへの転身をはかってもらいます。窓際で無駄に給料食うような先生ほど、ダメな親の心をよくわかることもありますし、教える側になって初めて自分が立ち直るきっかけになることも多々あります。もし、ニューアーク市で教育困難問題が解決したとしても全米ではまだまだたくさんの貧困世帯があるので、職に困ることもないでしょう。

これにどんな法律が邪魔するかわからないので机上の空論ではありますが、救うべきは「子供」「ダメな教師」「ダメな親」の3者の人生に置ける役目や希望であって、「子供」だけでは解決にならないわけです。

逆にこれが通るなら、教師労働組合への90億も、コンサルへの20億も、チャータースクールへの60億も必要なく、模範となるいくらかの臨時の優秀な先生達と、ソーシャルワーカーの学習代と雑費になるでしょう。続けてNPOに依頼してもいいですしね。

記事のタイトルとしてはここで終わってもいいのですが、ここからが記事を受けての本題。

貧困の連鎖をどこで断ち切るのか?

ここまでは「教育」と「貧困」の連鎖をどこで断ち切るのか?
という視点で見てきました。

上の小さな成功例で言うなら、どちらかというと「貧困」への対応が先で「教育」にも同時に手を加えることができています。

じゃあこれまでどこかで連鎖が止まった家系はもう「貧困」にならないので、2017年のアメリカでの貧困は昔に比べだいぶ淘汰され改善され救われてるのかというと、そうじゃないですよね。

新たな「貧困」も発生してるからこの問題は今日まで解決してないわけです。

そもそも貧困の連鎖ではない「新しい貧困」がどこから発生するのか?

結論から言うと、資本主義による「競争」での敗者が追いつけなくなった時、心が折れた時「貧困」が発生します。元記事にあるアメリカの共和党みたいな考えは「豊かな発展」と「どうしようもない貧困」を同時に発生させます。

アメリカは二大政党制を採用していて、大雑把に言うと、「再分配を大事にし、大きな政府を求める民主党」と、「競争を大事にし、小さな政府を求める共和党」がある。

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勝者がいるのだから、負けて貧困になる敗者がいて当然です。

もちろんチャレンジ精神を失わない人ならばどれだけでかい借金抱えても「貧困」ではありません。しかしアメリカはチャンスの国とか、チャレンジするやつには何度でも援助してもらえるというのは幻想です。大失敗したやつには誰もお金を貸しません。スティーブ・ジョブズぐらい過去に成功例がないと失敗後のチャンスはもらえません。ただ失敗続きな人には二度と資金は借りれないので、自分でバイトするなり、地道にきちんとしたビジョンで説得し仲間を見つけるしかないわけです。*1

なのでNPO法人も、スパーク校も、小学2年で競争に心が折れたアリフにも、親や先生含めて心の貧困状態から「再チャレンジできる希望」を植え付けていかないといけない。

「教育」が充実しても「競争」がある限り「貧困」はなくならない

例えばアメリカよりずっと識字率も大学進学率も高い日本や韓国では、教育がずっと充実してるといえるでしょう。中国も含め苛烈な受験競争社会ですね。では、この大卒の人たちはみんな貧困ではないのかというとそうじゃないんですよね。大卒なのに就職困難だったり、ポストドクターほど就職できなかったり、これだけ教育を受けてるにもかかわらず貧困におちいるという矛盾があります。

韓国、4年制大卒者31万人失業時代 | Joongang Ilbo | 中央日報
http://japanese.joins.com/article/614/224614.html

みんなが「大卒」だと「大卒」の価値がなくなり、より貧困化する。

東大、京大とか一部の大学卒業者こそ優遇されて、上位にないFランク大学と言われるところはまるで他と差別化出来ない現状があります。それなら中卒、高卒でも自分の地頭で考えれる人だったり、コミュニケーション能力が高い人のほうがただの大卒よりも差別化できるでしょう。


元記事には、日本の奨学金制度や、教育自己責任論を批判するむねもありました。

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自己責任を重んじるアメリカですら、「教育費に限っては政府の責任」と考えるのにたいし、日本は世界でも突出して「教育費は自己責任」という価値観が残っているということである。

これは裏を返せば、各国における「大学への期待値」の差でもあります。
「大学出てても結局我が社の仕事のやり方は1から教え込むのでどこでても一緒」
「大学は入るのが難しくて、出るのは簡単な所」
「大学は遊びながら将来の人脈作る場所」

という認識が強い国ほど、大学の価値は薄れます。なんの専門分野を研究して、どんな論文を発表して、入るよりも卒業するのが難しいアメリカの大学とはその人材に対する期待値が違うんですね。正直Fラン大学のサークルで遊びたいだけの人に奨学金なんてだせないですし、ローンの奨学金で無理に大学行っても就職できなければより深刻な貧困におちいります。そのうえで東大を優遇するのは「地頭の差」という保証が確実にあるという判断が働くからですね。

では「大卒貧困」をなくすためにどうしたらいいのか?

極論を言えば、「競争」ではなく「協力」したらいいんですね。

みんな東大に入りたいなら、座学はオンライン枠を増やしてみんな入れるようにしたらいい。研究とか施設をつかう必要があれば、一定の学力試験をパスできた人達が自由に学内の施設を使えるようにすればいい。東大の施設で足りなければ他の公立大学全てを「東大分校」にして空いてる場所や、深夜でも使えるようにしたらいい。社会人が改めて学び直してもいいし、会社の研究員が改めて大学生として混ざっても構わない。

そもそも会社で働きながら「大学生」でもあるというのが成り立てば、そこに「卒業」という概念も必要なく、会社や社会で必要になってから学べばいいのなら、高校生が一斉に大学受験する必要もなく、「どの講座を学び終えたか」「なんの論文をまとめて発表したか」という人材を増やし、生涯かけて学ぶ場にしてもいいわけです。

また低レベルなFランク大学では「算数から教える」という講座もあるようですが、それもありです。大人になって会社で働いて、改めて数学の必要性を感じ1から学び直したいとか、算数ぐらいわかるようになっておきたいけど、大人になって学べる場所がないという人もそれなりにいるでしょうから、そういうひとの学びの場として機能するといい。

ここまですれば「大卒」の資格ではなく、何を学んで何の論文を書いたかのほうが重要になります。ちょうどスウェーデンが大学試験のために歴史や数学を学ぶより、「これからの時代に必要な実学」としての職業訓練校に舵を切ってるように、大学で引き続き研究し学ぶ必要があることと、これからの時代に急務として必要となることに学生が別れていけば、本来の大学の価値を取り戻せて、「自分探しのための大学」や「遊ぶための大学」はなくなるでしょう。*2

「競争」するから「貧困」が生まれる

競争で勝てば優勝したやつだけ大儲けできて、メダルもらえない人は全部敗者です。それだと多くが経済的貧困におちいる。そして負け続ければ心が貧困になり本格的に這い上がれなくなります。資本主義の仕組みとして「アメリカンドリーム」と「貧困」はセットなわけです。

資本を均等に分け与える社会

先日、マーク・ザッカーバーグのハーバードスピーチが話題になりましたが、ザッカーバーグが未来の理想をこうかたります。こちらも翻訳感謝。

ザッカーバーグのハーバード卒業式スピーチが感動的だったので日本語訳した。

今日、僕らの社会はどんな人にとっても問題であるほどの富の格差問題を抱えています。もし”ある人”がそのアイデアを実行に移す自由がなかったら、それは”僕ら全員にとっての”損失です。

今の僕らの社会は既に実現した成功に報いることを過剰に評価しすぎる一方、あらゆる人が十分にチャレンジできる余地を与えることはできていません。

そのことを直視しましょう。僕がこのキャンパスを去って10年以内に何十億ドルと稼げた一方で、何百万もの学生がその学資ローンの支払いにも困っていて、小さく彼らのビジネスを始めることすらできていていない。そんな社会は、どこかが間違っている。

僕は色んな起業家を見てきて、その仕事じゃあ十分稼げないから辞めたっていう人は一人も知りません。しかし、それが失敗した時に致命的なことにならないようにする緩衝材としての経済的余裕がないために夢を追うこと自体をそもそも諦めてしまう人は沢山見てきました。

良いアイデアと、ハードワークがあれば必ず成功するわけではないことはみんな知っています。それだけじゃなくて運も必要です。もし僕がコードを書くかわりに家族を支えなくてはならなかったら、そしてもしフェイスブックがうまくいかなくっても死ぬわけじゃないってことがわかってなかったら、今日僕はここにいないでしょう。実際の話、今ここにいる人(ハーバード卒業生)はそれだけで既に相当ラッキーな生い立ちなのです。

すべての世代が、「平等」という言葉の定義を押し広げてきました。上の世代は、投票権と公民権について戦った。それらはニューディール政策とグレイトソサエティ政策に結実しました。今、僕らの世代が僕らの世代の新しい社会契約を結ぶべき時なのです。

これからは、GDPのような経済的指標だけでなく、どれだけ多くの人間が、意味のあると感じられる人生を送れているか・・といった指標で社会の進歩を測っていくべきです。だれもが自分の新しい挑戦ができる余地が与えられるような、ユニバーサルベーシック・インカムのような制度が検討されるべきだ。

一生のキャリアの中で働く会社を何度も変えなくてはいけない時代だから、1つの会社に紐付けられていない形の、多くの人にとって手の届く育児とヘルスケアの仕組みが必要です。

誰しもがミスをします。だからこそ僕らには失敗者が身動きできなくなったり、汚名を着せられて社会的に抹殺されたりしない社会が必要です。そしてテクノロジーが変化し続ける時代ですから、若い頃に一度だけの教育でなく生涯に渡って変わり続ける教育にもっとフォーカスした仕組みが必要です。

そして、そう、あらゆる人にその目的を追う自由を与えることはタダではできません。僕のような人間がそのコストを支払わなくてはならない。そしてあなたがたの多くも、そうすべきだし、実際にすることになるでしょう。

だからプリシラと僕は、チャン・ザッカーバーグ・イニシアティブを始めて、僕らの財産を機会均等の推進のために使っています。これが僕らの世代の価値観です。僕らはこれをやるかどうかについては、一度も疑ったことがありません。問題は”いつ”やるかだけでした。

ここで「ベーシックインカム」ではなく「ユニバーサルベーシックインカム」となってるのは、1国だけベーシックインカムをやって税率高めると企業や金持ちが他の国へ逃げてベーシックインカム自体成り立たないからでしょうね。やるなら世界同時にやらなければいけない。

社会主義2.0

前にこのブログで世界征服計画を考えました。

世界征服計画 立案書 - teruyastarはかく語りき
http://teruyastar.hatenablog.com/entry/20140401/1396357438

この極論の肝は、「社長も新入社員もみんなの給料を一律同じにして、業績が上がったら全員の給料が上がり、業績下がったらみんなの給料が下がる」という方式。こうすると経済格差から発生する問題や、既得権益と派閥から発生する政治問題、無能になるまで役職が上がるピーターの法則問題、は全て解消します。これを市、県、国、世界に広げていけばそもそも紛争やら、石油利権やらで争う必要もなくなる。

ユニバーサルベーシックインカムも含め、それは社会主義として失敗したじゃないかと言われるかもしれませんが、ソ連と中国が失敗したのは「どれだけ頑張っても給料があがらない」「職業は固定」「計画生産であまり違う方法を試さない」「社会主義なのに給与格差が大きすぎて汚職の元となってる」というのが問題であって、この方法は「誰かが素晴らしい知恵を出したら全員の給料が上がる」「職業は自由(困ったことを解決するのはみんなの知恵で。誰もやりたくない職業は全て自動化していく)」「同じ職種で協力しながらどんどん新しい方法を試して構わない」から。この協力は最終的に「特許にしばられないで開発していい」ところまでいきます。

ベーシックインカムにしても現状の資本主義をベースにあてはめると、別の既得権益に吸われてしまうのでまともに計算すればニューアークのように200億あっても財源がまったく足りません。分かち合う社会では200億ではなく、みんなが(給料すら)分かち合って知恵を出して協力することでその問題を解決していくのですから、財源が足りないということはありません。より極端な問題でいうと、食糧問題は食料が足りないわけではなく既得権益や政治の問題であり、医療費問題も結局既得権益とそれをコントロールする政治にいきつくからです。

その社会主義2.0は経済的モチベーションがなくても機能するのか?

経済活動ではないオープンソースのLinuxも、Wikipediaも、ニューアークのNPO法人も機能してます。社会がより良くなって進化することそのものが報酬であり、それにたずさわった人は給与ではなく、「名誉」を手にするでしょう。

今日、僕は「目的」について話します。しかし「あなたの人生の目的を見つけなさい的なよくある卒業式スピーチ」をしたいわけではありません。僕らはミレニアル世代なんだから、そんなことは本能的にやっているはずです。だからそうじゃなくて、今日僕が話したいことは、「自分の人生の目標を見つけるだけでは不十分だ」という話をします。僕らの世代にとっての課題は、「”誰もが”目的感を人生の中で持てる世界を創り出すこと」なのです。

ジョン・F・ケネディがNASA宇宙センターを訪れた時のエピソードで僕の大好きなものがあります。ホウキを持ってる清掃員さんにケネディが何をしてるのかと訪ねたら彼はこう答えました。「大統領、私は人類を月に送る手伝いをしているのです」。

「目的」というのは、僕ら一人ひとりが、小さな自分以上の何かの一部だと感じられる感覚のことです。自分が必要とされ、そしてより良い未来のために日々頑張っていると感じられる感覚のことなのです。「目的」こそが本当の幸福感をつくるものなのです。

例えばここでの宇宙飛行士と清掃員はそれなりの給料を同じだけもらったとしても、宇宙飛行士は大きな名誉を手にします。しかし清掃員が自分もその役目のひとつだと誇りに思うのなら、それは清掃員の名誉でもあり、世界中のひとは誰も気づきませんが、宇宙飛行士と周りのスタッフから感謝されることでしょう。

問題が見えていながら、誰かが解決してくれるのを待つ人生

ザッカーバーグは人生の目的をもつことが幸せにつながると考え、ハーバード卒業生をたきつけます。

次は僕ら世代の番です。あなたは「ダムの作り方なんて知らないし、百万人を動員する方法なんてわかんないよ」って思ってるでしょう?

しかし、秘訣をお教えしましょう。誰もそれを始めたときは知らないんです。アイデアはいきなり完成形でやってきたりしない。それについて取り組んでいるうちにだんだんクリアになってくるんです。とにかくまずは始めなくては。人と人を繋ぐ方法を最初から全部わかってたら、僕はフェイスブックを始めなかったでしょう。

映画やポップカルチャーは、ここのところがわかってません。「そうかわかったぞ!(エウレカ!)」と叫ぶ奇跡の一瞬があるというのはキケンな嘘です。自分にはそんな瞬間なかったぞ・・・と居心地の悪い思いをさせてきます。その嘘によって、「将来大きくなるはずのアイデアのタネ」を持っている人がとにかくそれを始めることを辞めてしまうかもしれない。

理想主義的であること自体は良いんです。しかし、誤解しないようにしなくてはいけません。大きな目標に向かっているすべての人は狂人扱いされます。たとえ最後には正しかったとわかる場合でもね。複雑すぎる課題に向かっているすべての人が、その人が自分がやってることをちゃんと理解してないとか言って責められます。事前に全部わかってるなんてことが全く不可能な場合であってもです。

イニシアティブを取るすべての人が、急ぎすぎだと非難されます。いつだってもっとゆっくりさせたい人たちがいるからです。

僕らの社会では、あまりにミスを恐れるあまり、もし何もせずにいたらそもそも全てがダメになってしまうということを忘れてしまって、結局何もせずにいてしまうことがよくあります。そりゃ何をやっていても、それなりに未来に課題はうまれますが、しかしだからといって、僕らが「それを始める」ことを辞めてはいけません。

じゃあ僕らは何を待ってるんですか?
「僕らの世代の課題」に取り組むべき時です。

ここで重要なことは、「自分じゃないかもしれないが、誰かがやるだろう」というこの感じです。僕らはただの大学生のガキで、業界のことは何も知らなかった。大きなリソースのある色んなデカイIT企業がいくつもあってそれぞれが色々やってる。そのうちのどこかがやるだろうと思った。しかしこのことだけは物凄く確かにわかっていたんです・・・”人々は繋がりたがってる”ということだけは。だから僕らは毎日やることをやって前に進むだけなんです。

あなたがたの多くにも、似たような話があるはずです。「誰かが起こすであろう”ある変化”」があって、そのことが自分には明確に見えているという感じが。

しかし「誰か」がやるんじゃないんです。”あなたが”やるんです。

正直、僕も人任せ感がありました。それが正しいかどうか、どれだけ困難かもわからないですし、むしろ今の問題だらけの社会でいいのかもしれないし、僕個人がそう困ってるわけではありません。

しかし、ザッカーバーグのスピーチで
「それが可能かどうかよりも、取り組み始めることそのものが個人の目的感や幸せにつながる。」
「”誰か” がやるんじゃないんです。”あなたが”やるんです。」

という強いメッセージは、ハーバード大学卒業生というエリートだけでなく、まさにアリフへの動機づけでもあり、ダメな先生やダメ親からの脱却への動機づけでもあり、大卒で就職難の人への動機づけでもあり、自分の人生を誰かのルールに任せきりにしない動機づけであり、「世界に対する諦め」という名の「貧困」から脱却するための動機づけに見えました。

*1:この意味では日本も同じで、逆に日本が再チャレンジしにくい国というのも幻想。

*2:遊ぶための大学も多様性のひとつとしてはありですけどね。