teruyastarはかく語りき

TVゲームを例に組織効率や人間関係を考える記事がメインのようだ。あと雑記。

自分が陰謀論にハマらないためにどうしたらいいものか

yashio.hatenablog.com

なんで人が急に「ネトウヨ」や国粋主義者になってしまうんだろう、と以前から不思議に思っていた。

 「ネトウヨ」は、「日本はすごい」という物語を信じることで、「日本人である自分」の自尊心を満たすことなのだと単純に思っていた。しかしそれだと、社会的・経済的に恵まれていて、十分に自尊心を満たせているように見える人や、知的水準が低いわけではない人なのに、突然「ネトウヨ」になってしまう現象をうまく理解できない。

 そうではなくて、「日本はすごい」の以前に、「日本は被害を受けている」という認識がまず先にある。「他国によって我々は虐げられている/脅かされている」という被害者意識がまずあって、それに対して公平さや正義を回復する、というストーリーになっているんだと思い直した方が、よりよく現象を説明できそうだ。

これは僕も不思議だった。お金もってて、知的水準高そうな立場にいても陰謀論にそまってしまうのかと。そこに認知の罠がありそうだ。

基本的に誰でも「自分は悪人じゃない」と信じたいので、衝突が発生した時に、咄嗟に「自分は悪くない=被害者だ」と思おうとするのは自然なことだろう。

「自分が悪人じゃない」は疑いようのない事実。だからその感情に合うよう矛盾なく都合の良い認知の歪みを公式のように展開する。現場の当事者でなければわからない x や y やを自分の感情のままに埋めて矛盾のない公式、ストーリー、正解を作り上げる。

そのストーリーにある「自分が悪人じゃない」は揺るがせない事実なので、感情に合わない情報は探せないし、探さない。ネットでちょっと一次情報検索すれば分かるような事もしない。他人に x と y じゃ矛盾するじゃないかと指摘されると、それは自分の感情への否定、本人の否定につながるのでキレる。

矛盾を指摘されたら z を足してストーリーを補完する。さらに相手の公式やストーリーに対して i や e を足し不完全、未確定なものとして論点やゴールをずらしていくことで「自分は悪人じゃない」「自分の感情はシンプルな正義」を維持しようとする。


客観視点、メタ認知を得るには4つのステップがあって

「自分の感情が正しいストーリー」
これだけだと x や y を陰謀論で埋めることができる。

「相手が正しいストーリー」
仮にでいいから、まったく同じ要領で相手が正しい主人公のストーリーを作ってみる。そこに読者を驚かせ引き込む要素があれば、相手が主人公なのに「自分が作り出した自分のストーリー」としてひとつ認知が広がる。

「両方悪人のストーリー」
実は自分も相手も共に悪くて、大自然シシ神様が正しかったというシシ神様に都合良いストーリーを作ってみる。これは平行線の争いを第三者的に昇華させる別の視点、枠組み、スケールで問題を客観視してより広く考えることができる。

「両方正しいストーリー」
実はいじめっ子が100:0で悪い、犯罪者が100:0で悪い、歴史問題や地域紛争はこの国が100:0で悪いなんて事はまずない。問題は様々な視点で複雑であり、現地現場の当事者すら一部の視点でしかわからず、みんなそれぞれ正しかったりする。

「両方正しいストーリー」にはみんなが正義で物語はカオスで、究極的に善悪はなく、それぞれやりきれなくて、どこまでいってもそれぞれ複数の主人公のポジショントークで、勧善懲悪のような感情を発散するカタルシスに欠ける。だからみんな矮小で分かりやすい勧善懲悪にしたがるのだけど、ここまでストーリーを複雑に考えるとすべての可能性はカオスな保留であって、現状の自分はどのポジショントークを選ぶかでしかなくなる。

この4つのストーリーを作る事で、実際の情報が足りないなか、いろんな客観視点ストーリーをトレースして様々な仮説からより現実的なポジションと解を模索することができる。

陰謀論がやっかいなのは、例えば宇宙人が存在して未知のテクノロジーがエリア51にある可能性を証明しきれないことだ。誰がどこまで調査しても可能性は残り続ける。人間の科学力はまだミクロで素粒子、マクロでは火星にたどり着いたばかりでその先のほとんどを知らない無知で可能性ストーリーが大きすぎるから。


でもこの4つのストーリーを考えた後であれば、「陰謀論」も無数の可能性のひとつとして保留しておける。自分の感情を切り離せないと4つのストーリーは作れないので、客観的により現実的なポジショントークとして「陰謀論」は可能性ゼロではないが、保留のままにしておける。

ストーリーは下にいくほど難易度が高く「両方正しいストーリー」まで最初に考えるのは結構大変である。そういう視点を持ったことがないから。でも考え続けたり自分でまとめて書いて頭を整理することによって、類型パターンができてくるので慣れると早い。むしろ自分の類型パターンにないストーリーを他の人の意見や発想から発見するのが楽しくなるだろう。


人は自分の尊厳や存在や脅かされる事そのものに恐怖し、怒り、メディアはPVを稼ぐためそれを煽り、自分も自身の恐怖や怒りからさらに煽る。いろんな事件や問題全てに自分の尊厳や存在を重ねては噛み付くのは、自分自身の尊厳が脅かされるように重ねるからだ。

「我々が恐怖すべきことはただ1つ、恐怖そのものなのである」と言ったのは世界恐慌中に大統領となったフランクリン・ルーズベルトか。金融などはまさに人々の恐れこそが、現実の恐慌になる。

ここ結構重要な気がして、人は死ぬことを忘れるな(メメント・モリ)という覚悟さえあれば殺されても尊厳は失わない。つまり「人間が尊厳を失うときはただひとつ、尊厳を失う恐怖にかられてしまったときなのである」といえる。尊厳を失う恐怖に時間という命を使うのはもったいないし、かっこ悪い。

自分がゆずれないものを死んでも貫く覚悟があれば気持ちよく、かっこよく人生を全うできる。では、些細なメディアの煽りや数々の嫌な事件全てに死を覚悟して自分の尊厳を重ねて当事者のように怒る必要があるだろうか? いちいち自分を重ねる必要のないくだらない事件ばかりではないだろうか?

そう思うと、お金もってて、知的水準高そうな立場にいても、その尊厳を失う恐怖にはずっとかられていて、ずっと怒るのである。そしてそれに反応する小市民もまた、尊厳を失う恐怖にはかられていて、ずっと怒るのである。

なので自分の感情は切り離し、客観視点と洞察における保留のポジショントークに抑えて、間違ってたら素直に謝るのがいい。自分はいつか死ぬし、地球も50億年後に太陽に飲まれ死ぬという覚悟があれば尊厳を失うことはない。人生でくるかどうかもわからないいざというときまでその覚悟は取っておこう。一方的で単純なストーリーの恐怖に怯えて怒って噛み付くよりも、もっと楽しい時間と命を費やせたらと思う。