teruyastarはかく語りき

TVゲームを例に組織効率や人間関係を考える記事がメインのようだ。あと雑記。

本質を読み取る技術

天才になれる秘密 - teruyastarはかく語りき
http://d.hatena.ne.jp/teruyastar/20090406/1238950447



前回のエントリーにはより大事な足りない物があるんじゃないか?
という明確な反論をコメント、ブクマ、トラバからたくさんいただきました。
その代表的なところで、、、

天才になる方法 | 株式会社日本情報化農業研究所、しゃちょうのにっき、かも日記。
http://blog.n-i-agroinformatics.com/article/273


そもそも良質なコピーをしようと思ったら、オリジナルの背景までちゃんと理解している必要がある。たとえば数学だと、定理を定理として使うだけじゃなくてその証明はきちんとできるようになっておく、などということだ。そいうことを突き詰めていくと、「自分で考える力」とコピーの力との境界は極めてあいまいになる気がする。



そう、要領の悪い人は罪悪感云々以前に質の高いコピーなんてしたくてもできないんだ。そこには質の高いinputが必要になるから。




「背景をしっかり考えること」


多分、それが一番教育に足りていないことなんだろうな。

素晴らしい!
まさにこれは、元記事に足りてなかったことが事がズバリと指摘されてます!



もうひとつ

404 Blog Not Found:「コピーの天才」が天才になれない理由
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51197078.html


トーマス・エジソン -
天才は1%のひらめきと99%の努力からなる。


洋の東西を問わず、このあまりにも有名な台詞は、「いかに努力が大切か」、あるいは「いかにコピーが大切か」を説くのに用いられることが99%以上だが、残念ながら、あるいは幸運なことにそれでは天才にならない。


天才を天才たらしめるのは、1%の方なのだ。
その1%とは、コピー元に対する「これじゃない」感なのだ。
「内なる違和感」、あるいは「これじゃない」感を放置できないのが天才である。

わかりやすいw
この指摘できっちり補完されました。
他の皆様も同等の指摘をありがとうございます。


それじゃ続きです。


なぜ普通の人は、「これじゃない感」をそのまま放置できるのでしょうか?

あるいはなぜ、「背景をしっかり考えない」のでしょうか?


これは確かにいわゆる天才と、いわゆる普通の人との決定的な違いです。
ほんの1%の小さな差。
あるかないかわからないような
たったそれだけの差で金メダルをかっさらっていきます。
同じ業界ならもうコロンブスの卵のような、
なぜか気づかない普通の人と、その本質を捉える天才。。。。。



少しさかのぼりましょう。


あなたは子供の頃どれだけ深く質問しましたか?


さすがに覚えてはいないと思いますが、
誰にでも必ずある経験です。


「なぜお魚は海を泳いでいるの?」
「なぜ夜になるの?」
「なぜかたつむりには目が無いの?」
「僕はどこから生まれてきたの?」
「なんで学校に行かなきゃらないの?」
「なんで勉強しなくちゃいけないの?」
なんで、、、なんで、、、なんで、、、、、、、、、



大人達はどう答えたでしょうか?


「お魚は海が好きだからだよ」
すると。
「なんでお魚は海が好きなの?」
「海で生まれたからだよ」
「なんで海で生まれたの?」
「お魚とはそういうものなんだよ」
「なんでそういうものなの?」


まあだいたいこの辺、小さな子供相手にたった3階層で大人はギブアップです。
しまいには怒り出す大人も結構います。
子供だと思って最初にウソつくのが悪いんですけどね。


もちろんこういう年代の子は大人が嘘をついてごまかしてることは感づいてます。
子供にもつじつまが合わないから当然です。
別の大人はこういうかもしれません。
「なんでだろうねー。大きくなったら学者になって君がその謎を調べた方がいいかもしれないね」
もちろん子供は納得しませんが、、
その疑問より先に大人に相手にされてないことにやはりへそを曲げます。


この先がどうなるか分かりますか?



子供はピッタリ大人の真似をするようになるんです。


大人に軽くあしらわれること、
大人からウソをつかれ無視されることを、
小さな子供はことさら恐怖に感じます。
その大人とは、たいてい自分を守ってくれるはずの保護者であり親であるからです。
その人しか頼れないのに嫌われるのはまずい。


なぜ? なぜ? ってきいちゃいけないんだ。大人もわかんないんだ。 そういうものなんだ。


子供は生きていくために、『ある程度で思考を停止する』ということを学びました。
それは大人が『ある程度で思考を停止する』とそっくりの真似でした。



こういうときは、一緒に考えてあげたらいいんです。
子供と思わず、同じ一人前の人間として接してあげる。


「魚はエラ呼吸しかできないから、陸の上ではいきられないんだよ」
「エラコキュウってなあに?」
「口の下のここにある、このエラで水の中の酸素を吸ってるのさ」*1
「サンソってなあに?」
「僕たち人間も空気中の酸素を吸ってるんだよ。呼吸をしてるのさ。魚は水の中で、人間は空気の中で呼吸をするんだ」
「なんでコキュウをするの?」
「酸素をエネルギーのひとつとして、命は動いてるんだ。酸素がなかったらエネルギーを燃やせないから動けなく、生きていけなくなるんだよ」
「コキュウしなかったら死んじゃうの?」
「そう、大事な大事な呼吸を魚も、人間もそれぞれの場所でしているんだよ」
「、、、、、なんでさかなとにんげんはちがうの?」
「なーーんでだろうねーーーw 僕も学校ではそこまで習ってないから知らないんだ」
「えーーー。大人なのにしらないのーーーーたいしたことないんんだなーーーー」
「はは、大人でも知らない不思議な事がいっぱいあるのがこの世の中なのさ。君が大きくなっていっぱい勉強したらその謎を解けるかもしれないね。ホラもうすぐママが帰ってくるよ」
とまあ、本来は質問がどこへいくのか、
この何十倍も長い面倒なことになるのか
こっちがもっと早くギブアップするかわ分かりませんが、
大人でも知らないことは知らないということをまず認め、
メンツや意地などを忘れ、あきらかに格下だと思う相手とでも時間をかけて対等に学び合う。
これが本来の教育です。
対等に扱ってもらい、たいしたことないとか、ああは言ってもお互いを認め合って終わる。
ここで子供が学ぶのは知識ではありません。
大人が人に対する愛情の態度これを真似るようになります。
そしてその態度に、『考えるのをやめない、物事の本質へ深く迫るクセ』が養われるのです。
天才は愛情から遺伝します。



話を元に戻しますね。


ではなぜ普通の人は、「これじゃない感」をそのまま放置するのか?

あるいはなぜ、「背景をしっかり考えない」のか?
なぜ「自ら思考を停止」するのか?



それは自我が崩壊するからです。


なぜ?なぜ?と問い続けるのは、
どの問いからでも本質へたどり着く確かな道です。
しかし、、その『物事の本質』という物自体は
深く、深く潜っていくほど『意味』を無くしていきます。
『意味』がなくなるというのは、『存在を無くす』ことであり
『ひとつになる』事でもあります。


もうちょっと分かりやすく言うと増田でよく話題にでるような
「生きてる意味なんてないんだよ」
「愛とか死だって意味なんか何もないんだよ」
とかそういう根源を問う話に近づくわけです。


生きてる僕たちにとって『意味』がないと突きつけられて
それを真正面から受け止めるわけにはいきません。
自分で自分の存在意義を否定しては、生きていけません。
だから思考停止はどこか必然的ではあります。*2


で、ここが一番大事なポイントです。
なぜ?なぜ?を繰り返して、意味が消えかかる『ひとつに収束していく』ということは

全ての物が重なり合う瞬間でもあります

つまり、全ての事象の共通本質が『見えてくる』のです。
元はひとつなのですから。
後は、それを意味のある形として使えばいい。


「一流は一流を知る」と言います。
それはお互い、深く潜っていったところで見えた本質的な共通項を知ってるからです。
全く関係のない、ゲームと、宇宙と、アニメと、仏教と、家族や人間関係だって
どこを抑えるべきかの共通項がまるで一緒だったりします。
ゲームが好きなら恋や友情を語っても「それはゲームの●●のようだね」と例に出してくるでしょう。
そういうたぐいのさらに、さらに奥深く、、、、、


私たちは自己否定がどうしてもできない


ちょっと難しい話になってきたので、
もっと簡単な現実に当てはめてみましょう。

本質を追究すると意味を失っていくというのは
自分を失っていくということ。


例えば、会社で何か問題があってそれを解決しようとします。
ここで普通の人がなぜ?なぜ?を繰り返し問題の本質を探ろうとします。


ところがこの本質をさぐろうとすると
普通の人はどうしても思考停止せざるをえないところへぶつかります。
『自分は、はたしてこの会社に必要なんだろうか?』
あるいはこれに似た類の自分の無能感。「これじゃない感」です。


そんなのもう!当然、徹底抗戦です!!
「これじゃない感」を放置して、そこから先へは潜りません!!
後は堂々巡りです。
自分がいなくても会社が廻るなんて信じたくない人です。


こういうのは我。
我が強いと言います。


いわゆる天才はここで自我を一度捨てます。
自分の利益とか、こだわりとか、
普通の人が絶対捨てない我をまったく惜しげもなく捨て、
さらに深く潜ります。
その奥で本質を見つけてきてから、
その本質をうまく自我と組み直して新しいひらめきとします。


これを読んでる人はそこまで自我が強く無いですか?
オリジナルに、自分のやり方にどうしてもこだわりたいとか無いですか?
、、それなら良かったです。


ですがさらに奥で観てしまった本質。
次の大きな自己否定には耐えられるでしょうか?


今までやってきたことが無駄だったとあなたは認めれますか?


途中までプロジェクトをこなしてきて、
そこまで走ってきてよくよく考えてみると
そこに根本的な間違いに気づくことがあります。
その本質をあなたは認めれますか?


普通の誰もが
そんなはずはない!
何か方法があるはずだ!
ここまでやってきたことを無駄にはできない!
もっと時間をかけるんだ!
応援を呼べ!
気合いを入れろ!
マーケティングをやり直せ!
最初は失敗で当然、継続してれば道が開けるかもしれない!!
と、言います。


ですが「これじゃない感」を受け取っていながら見ないふりをして放置し、
炎上はさらに加速。。。。。。
ビジネス用語でいう「損切り
宮本茂でいう「ちゃぶ台返し」という奴ができず、
ゆでガエルとなってこんがり焼き上がるプロジェクトは枚挙にいとまがありません。


今まで積み上げてきた作業、やり方、実績、身につけた技術、、
はたして普通の人がその違和感に気づいたとき、
全てを一からやり直すことができるでしょうか?


さらに!!!
ときに本質はもっと大きな自己否定を必要とします。


ほんとうに「ちゃぶ台返し」ができる人なんているのか?


あなたが「これじゃない感」に気づいたとき、
それを無視せず、本質を探ろうとしたとき、
自己否定だけならまだいいのです。


しかし、プロジェクトは仲間とやってます。
自分が積み重ねてきた物だけじゃない。
ちゃぶ台返しは、、
ときに仲間が重ねてきた、汗、努力、知恵、
そしてその存在意義を全てぶちこわします。


モチベーションは激しくダウン。
仲間からも恨みの目で見られ、
頑張ってる人は気力を失い、
次の作業には取りかかれず、
「ならなぜ最初から言わなかった!」と罵られ
プロジェクト人数分の自己否定を一身に受けないといけません。

そんな思いするなら、ゆでガエルで死んだ方がマシです!!!!!たった2人分でも背負いきれません!!!!


、、、と、よく噂にきく上流会社がデスマーチを生み出すシステムです。
(デスマはあくまでネットでみた噂)


プロジェクトだけでなく、
会社の事業が時代に合わなくなったのに
これまでの歴史を否定できないというパターンもあります。


コンサルはそうならないように、プリプロジェクトをしっかりしましょうね♪
とは言うのですが、実はさまざまな形と規模で因果を引っ張り
上記「これじゃない感」を受け容れたまま惰性でプリプロっちゃうことは多いにあります。
それに、本質にたどりつけなければ
どれだけマーケティングデータをとっても読み取れないのですから
それこそ本質をつかめるビジョンの天才がリーダーを務めてないのなら
走りながら体で「これじゃない感」を受け取るしかありません。



、、、と、ちょっと長くなりすぎましたね。
本質を読み取る技術は、、それこそ上の中から読み取れなくも無いですが、、
ちょっと訓練方法は省いてまとめます。


本質はいつもシンプル


深く潜るほど重なり合うから、いわゆる天才には世の中がとてもシンプルに見えます。
逆に深く潜れず浅い複雑な絡み合いに翻弄される、いわゆる普通の人は世の中がとても複雑に見えます。


絶対的な壁としての天才をとても複雑に捉えてる人は、普通の人達であって
天才当人達は、まったくもって天才を認識していません。

私が他の人より遠くを見ることができたとすれば、それは巨人の肩に乗ったからだ


ニュートン

創造のコツは、それがどこから得たものかわからないようにすることだ。


アインシュタイン

これも非常にシンプルな真実です。
素直に受け取れず、複雑に考えたいならそれもまたあなたにとって真実です。


404 Blog Not Found:「コピーの天才」が天才になれない理由
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51197078.html


私は、実は天才というのは意外に多い確率で存在するのではないかという感を年々強くしている。かつては「100万人に一人」だとか「1億人に一人」だとかと思っていたが、実は100人に1人ぐらいの高確率で存在するのではないかと感じるようになってきた。blogを読み書きするようになってから、その思いはますます強くなっている。

0点
とは言いませんが、違いますw


ほとんどの人があるはずなんです。
「これ私が前に考えたことだ!」という天才的ひらめきのシンクロニシティ
天才と普通の人の差はわずか1%。
でも100人の他人の差は1%どころじゃなく
そのひらめきの多様性は100人が天才のタイミングをもちあわせてるんです。


とすれば絶対的な天才なんて存在しません。
気づきなんて誰もが偶然のタイミングを引き寄せる、その程度のほんのわずかな差です。
せいぜい秀才とか要領の良い人が無心で好きな事へバカになり、
これを普通の人がその複雑な思考で神格化します。


圧倒的と思われる能力の差も「どこで思考を停止したか?」の深さの差によります。
子供の頃に戻って「我を消した」コピー訓練というのもいいですが
まあそんな意識しないでも、人にはすべからく必要な時、必要な事が、
必要なタイミングでおこっていますから、無理に追う必要も無いんですよ。


そういえば1行だけのトラックバックがありましたね。

天才になれる秘密 - finalventの日記


自分を見失える能力。


加えてその思わせぶりに複雑化させる能力^^;



天才になんかならなくてもいい


シンプルな話なんですよこれも。
天才を追い掛ければ追い掛けるほど、ますます差が広がりますが
天才は存在しないと考えると、追う必要もなくなり、比べることもなくなり
自分の才能の発露に余計な壁を作らなくなります。


最初の定義から自我に囲まれては、、、、と、もう冗長ですね。


天才という複雑な幻を追う必要はありません。
普通の人は普通のままで、ただ人に優しくするだけで、また誰かに必要とされる。
それだけで普通の人はもう天才なんですよ。*3


本質を読み取る技術


昔の記事から引用させてもらいます。
自分でも忘れかけるしw

フレームワーク脳を打ち破る宮本茂の言葉 - teruyastarはかく語りき
http://d.hatena.ne.jp/teruyastar/20090128/1233071017


でもそんな雲をつかむような話を展開されても、
宮本茂みたいな天才だけしかできないんじゃないの?


いいえ。
とても簡単なコツがあります。
天才とか凡人とか分ける必要もありません。


分けて考えるなというのはつまり
善悪や優劣に分けて考える必要はない。
全部正しいと考えるということです。


そこに悪も、間違いもないわけです。
今のあり方が全部正しい。


元々善悪や正しい間違ってるというのは人間による人間のための判断です。
塞翁が馬の心得なら、全部ひっくり返すことができます。
つまり善悪の判定をコントロールすることができる。


すると今の要素の全てをプラスのピースにして
その全部の力で問題を解決する絵が浮かびやすくなります。


全部正しいのだから、どんなピンチもチャンスにに利用できるよう
勝手に脳がつじつま合わせをはじめます。
この脳のつじつま合わせ能力がもの凄いのです。


「全部正しい」という視点には善悪の差がなくゼロ、
それは無機的な価値観とほぼ等しいので一番素直な目で物事を観察できます。


ですが、それはもう人間的な感情をもった視点でもありません。
悪いことも100%正しいというのは人としてあまりに不自然です。
だからこそいい。


そういう素直で常識から不自然な視点というのはほとんどの人が持ち得ません。
世間的に悪いと思われることも正しい、敵だと思ってた奴も正しい、
もちろん自分も、今の環境も正しい。
その全てを使って、新しい絵を描ききります。


だから人とは違う視点になる。
物事や常識から解放されやすくなる。
そして全部正しいという思考が全部正しいという仮説が、
脳のつじつま合わせ回路を最大限使って
あれもこれも正しくなる本当の解決に移行します。

記事内の宮本茂の発言と合わせてどうぞ。



以上、ここまで読んでくれてありがとうございました。

*1:酸素だったっけ?こういうときは一緒にネットででも調べ直す

*2:我を消せばいいのですが

*3:情報処理の本質に近いんです