統計よりも「1人のストーリー」が有効な理由
http://wiredvision.jp/news/201009/2010091722.html
チリの鉱山で起きた事故は、人々の高い関心をひきつけている。
一方で、パキスタンの洪水は、大規模な被害であるにもかかわらず
十分な関心が喚起されていない。
その背景についての考察。
Slovic氏は、さまざまな慈善活動について、
どのくらいの金額を寄付しようと思うか人々に尋ねた。
その結果、たとえばマリ共和国のRokiaという名の
1人の飢えた子どもの写真を見せられた人々は、驚くほどの気前の良さを示した。
これに対し、アフリカ全土の飢餓に関する
統計データのリストを見せられた2つ目のグループは、
申し出た寄付金の平均額が50%低かった。
一見して、これは非合理的だ。
問題の全体像に関する情報を得られたときこそ、
われわれは金額を多く支払うはずだからだ。
ロキアの悲劇的な物語は、氷山の一角にすぎない。
Slovic氏によると、統計データの難点は、
われわれの道義的感情に訴えかけないことだという。
厳しい現実を数字で見せられても、われわれの心は動かない。
人間の心は、そこまで規模の大きな苦しみを理解することができないのだ。
われわれは、ひとりの子供が井戸に落ちたら心配で目を離せないが、
清浄な水が無いことで毎年何百万人もの人が死ぬことには関心を持たない。
雑誌の表紙に載ったひとりの戦争孤児には何千ドルもの寄付が行くが、
ルワンダやダルフールで大虐殺が起こっていても無視される。
マザーテレサの言うように、
「数として見た時には行動しない。ひとつの例を見た時には行動する」のだ。
別解釈してみると、
誰かを助けるというのは、
「強者が弱者を助ける」であって、
「弱者が強者を助ける」ことにはならない。
一人の子供が清浄な水を飲めないというのは
一人の日本人から助ける動機にはなるが、
100万人が清浄な水を飲めないというのは
一人の日本人と比べて100万人という数が弱者と思いにくい。
もちろんここで自分が100万人の中の日本人とは思わない。
というか個人でそんな力があると思えない。
あくまで自分一人(強者)と子供一人(弱者)か、
自分一人(弱者)と100万人(強者?)というふうに考える。
そういう力関係を感じ取るのではないか?
いや、ストーリーを否定するわけではなく
強者が儲けたお金をそうやって弱者のために使うのは
お金の使い方として最適なひとつだと思う。
ただこれにちょっと似た話、
ソーシャルアプリなんかでも聞いたことあって
例えばプレイヤーの所属するギルドのLVアップには
みんなの寄付が必要なんだけど、この寄付はなかなか集まらない。
統計的には全員が寄付してLVアップさせたほうが
全体として得なんだけど、
ギルド自体は自分より弱者には思えないし。
個人でなくギルドが得になるような課金アイテムもなかなか売れない。
でも、仲間の誰かが敵に攻撃されて大ピンチの時は、
損得抜きにその仲間へ大勢の寄付や支援が集まる。
こんなピンチにこそ課金ブーストアイテムもたくさん売れる。
そこにひとりの弱者のストーリーが生まれたから。
つま
また、資金に余裕のある強者である社会人と、
資金に余裕が無い弱者である中高生とか、
強者が弱者にいかにプレゼントしやすく感謝されやすい組みあわせを
おっと、ブログの途中だが誰か来たようだ、、