teruyastarはかく語りき

TVゲームを例に組織効率や人間関係を考える記事がメインのようだ。あと雑記。

選挙で「けしからん奴」を選ぶ

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「何も変わらないから投票に行かない」のではなく、
「投票に行かないから何も変わらない」という単純な事実。

 

と言われると、じゃあ誰に投票したらいいんだ?
自民党は経済優先で金持ち優遇だし、共産主義は嫌だし、維新や個性的な新党はアクが強すぎるし、その他野党には自民党の政策と差別化出来てないし。となる。

僕がリーダーを選ぶ判断基準は
「未来をどう見据えてるか」
「サプライチェーンを構築できる突破力があるか」
の2つ。

個人的にあって欲しいという未来は、ブルシットジョブは全てAIとロボとドローンに入れ替えて、「労働」は有能な2割ぐらいが望んでやるものになること。50年かかるか100年かかるかわからないが。ベーシックインカムありきで、インフラと福祉が充実して贅沢をせず暮らすには働かなくてもいい世界。

世の流れとしても「デジタル化」「ベーシックインカム議論」「高度社会福祉」は少しづつ進んでると言える。机上の空論になりがちなのは「そのための財源はどうするんだ」といった税収関連だろう。

しかし日本の政治や、大企業はそれ以前の問題として「失敗の本質」という本に向き合わないといけない。第二次大戦の敗戦原因を事細かに研究した古い名著だ。

たぐいまれな現場力で前線は活躍し、持ちこたえさせるのだが、上層部は合議制で誰も責任を取らずそれを問われないため、上層部は失敗という概念を認めない。失敗は現場の個人技や職人芸で取り返すものであり、PDCAによる大局の改善や、システム化によるスケールアップが望めない。

現場の個人技や職人芸に頼って、大局観を持てずに負ける。スケールアップできずに負ける。政府、官僚、大企業、中小企業、日本のあらゆるところに見られる現場の力でなんとかしてしまう日本の合議制、責任回避における病気だ。

この病気に関する最高の答えはトヨタが解答している。
お客が欲しいと思ってから、最短で、理想的にはゼロ秒で最高の品をカスタマイズして届けられるか。GoogleやAmazonやAppleのジョブスやティム・クックもこれを追求し続けている。ミクロにもマクロにもサプライチェーンの話である。

車を作るのが遅ければ利益にならない。
最高の車ができても、宣伝力や販売力がなければ車は売れない。
宣伝がうまくても、流通がうまくなければ利益は出せない。
販売したあとのメンテナンス、アフターフォローも大事。
個人別にカスタマイズする必要性もある。
製造、流通、販売、体験、サポートまで一貫して高品質を保たねばならず、車が90点でも、サポートが50点、流通が30点なら、30点しか取れないのだ。
製造はミクロな製造だけでたくさんのサプライチェーンがある。


官僚や役所が日本社会のサービスだとして、そのサプライチェーンを止め「お役所仕事」と呼ばれるのは「全体の効率」より「公平」「平等」「正しくルールを守る」事を最優先にしてるためだ。そのルールが効率悪いとしたら、まずルールを変える法改正に手を付けねばならない。

しかし行き過ぎた「公平」「平等」によって一度決まったルールはなかなか変える事が難しい。一度決めたものを変えるとき全体の効率は良くなっても部分的に負担が増えたり、誰かが損したりとなるとその権益を守る戦いも出てきて難しい。

結果、昔決めた安全や公平やセキュリティの正しいルールを守るため、とんでもなく非効率で現場が残業し続けてなんとか解決するという、生産性悪い働き方をしなくてはならない。特定層の権益(金持ちや役員ばかりとは限らない)の部分最適化ばかり優先して、全体最適化に踏み切れない。これでは税金や人という財源を効率的に使ってるとはいいがたい。

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まず日本においては、ゼロリスクとカオスの両極端で議論をおこないます。

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一般的な組織においては、秩序が保たれなければ、すぐカオスになって破綻します。ですから、リスクをゼロにしようと言うわけです。ただ、ゼロリスクを目指すと、他の会社は何らかのおもしろいことをやっているのに、自社はやっていないので、必ず競争に負けてしまいます。

われわれはカオスが駄目になるのはよくわかるけれども、ゼロリスクも駄目になることをよく理解しなければならないのです。そうすると両極端ではなく、絶妙なバランスに基づいた「けったいな行為」が生まれます。つまりは中庸です。良いバランスを目指すことは、大変おもしろいことではないかと思います。


合議制と責任回避でリスクゼロを目指す日本が、左の秩序ある正しい方へ行き過ぎて破綻しかねないことをよく表している。

カオスが破滅になるというのは全員よくわかる感覚だが、完全な秩序やゼロリスクが破滅につながる事は感覚的に理解しづらい。秩序やゼロリスクは誰が見ても「正しいこと」だから。失敗の本質にこの図が必要だ。

僕らはただ「秩序」「安全」「リスク回避」を徹底して「悪いことする奴が出てこないよう」正しく動いた結果、何をするにもたくさんのハンコと承認、責任回避で不可能な全員の合意、遅すぎる決定、それらによる非効率、低生産性のブルシットジョブで苦しんでるのだ。

この中庸の「けしからんいたずら」はゼロリスク信仰から見ると悪いこととして叩かれる。日本で著作権無視したYoutubeが作られてたり、勝手にHPのキャッシュ取るようなGoogleが生まれてたら「けしからん」といって潰されてたかもしれない。

このバランスを取るのに必要なのは「人の判断」である。
だれかが「けしからん」事をして誰が迷惑を被ったのか、ゼロリスク信仰の外野が騒いでるだけか。迷惑があれば個別に保証、交渉、修正できるか。全てを法やルールでがんじがらめにしてはそのコストで破綻したり、チャンスや自由を失ってしまう。

逆に、法治国家において人の判断が混ざると懇意的に権力を悪用されかねないため、全てを法に記すべきというのも分かる。権力乱用される人治国家を避けるため今の民主主義国家へたどり着いた。ただ今の日本はさすがにゼロリスク信仰すぎだ。時代が違うか、他の強権国家だったら分かるがもう少し中庸と効率のバランスを取る必要があると考える。判断で揉めるなら裁判や司法がある。


僕は自民党員ではないが、先の自民党総裁選では心情的に河野太郎を推していた。
コロナワクチンのロジスティクスや交渉に関して、厚労省が考える過剰な「安全」「リスク回避」をぶっ壊して、不可能と思われてた1日100万接種を超え140万接種を達成したり、行政改革案件での豪腕ぶり、防衛相時代にGSOMIA案件で韓国に断固抗議した態度、「昔決まった非合理でわけわからないルールが嫌い」という性格が、まさにサプライチェーン構築に必要不可欠な突破力だからだ。

ただはてな界隈では意見が分かれ、彼は「けしからん」人物でもある。Twitterはブロックするし、パワハラだし、官僚に態度悪いし、なんなら自民党の言うこともあんまり聞きそうにない。いくら専門家の話を聞き、データで議論するとしても、その豪腕すぎるパワハラ突破力で、経済、社会保障、他国との付き合いでどう暴走するか分かったもんじゃないと。


別に僕も河野レベルの突破力もってパワハラじゃない人物がいるならそっちを推す。でも仕事ができるのと、人格が聖人ではないのは分けていいと思う。(困るのは官僚だが)。極端に言えばロッキード事件起こした田中角栄はコンピューターブルトーザーとして首相を最後まで続けてから捕まった方がいいし、出所したら再選のチャンスがあってもいい。フランスの政治家みたいに不倫や浮気しても政治家として活動でき評価される国というのはありと思う。仕事で結果出す事とけしからん人格は別。

不完全な見切り発車で突っ走ってきた孫正義もゼロリスク信仰で考えるならその不完全な仕事ぶりが批判対象で叩かれるけしからん奴だが、実業家として仕事で結果出せたらありと思う。イーロン・マスクが日本人だったら、見切り発車すぎてぶっ叩かれてただろうが、あれもけしからんいたずら事業ばかりだ。スティーブ・ジョブズなんて人格は最悪を極めるが、仕事の評価は別だ。

そう考えると僕らは人格にもゼロリスクを求めすぎている。

秩序や安全に振り切ってけしからん奴、けしからん事を認めない事が、チャンスロスやゆるやかな破綻につながる。

選挙は仕事ができて人格が嫌われるやつより、責任回避で安全、平等、ゼロリスクで「結果はそれほど出てなくても、これまでミスをしてこなかった人」が選ばれるだろう。だが日本全体の病気である、秩序、安全、責任回避、ゼロリスク信仰でゆでガエルになってしまうのを改善していくリーダーシップは、人格的にも中庸を認める「けしからん奴」が多いかもしれない。というかゼロリスク信仰から見る中庸は全部「けしからん奴」になるため、あえて「けしからん奴」に注目して人格とは別に判断したい。


では「橋下徹(もう辞めたけど)」や「立花孝志」や「山本太郎」みたいな目立つけしからん奴を支持するのかというと、それは突破力こそ認めるものの、どういう未来を描いて、端から端までサプライチェーン築けるか、築く気があるかという話が先。その論に大きな穴がポコポコ空いてないか、一点突破の部分最適化ばかりで全体のチェーンつなぐ気ないのかなど判断した上で、未来像にちょっとでも近づける人を選びたい。

もちろん全体のサプライチェーンをこなせるかは公約で分かるものではなく、実績見るにも政権とれない野党では難しい。一点突破でもそれがボトルネックを少しでも改善して未来に近づけるなら良い。車の例でいうと一番点数低い30点の流通を改善するならよい。だが50点のサポートを最優先で改善するのはよくない。ボトルネック以外の効率が改善され車がどんどん出来上がると、ボトルネックの流通や在庫がより圧迫されどんどん赤字になることもある。

例えば野田聖子が公約してた「こども庁」というのは出生率1.5を割る日本で喫緊の課題だ。しかしこども庁のサポートがあれば子どもが増え、将来税収が増え、みんな豊かになるかはわからない。

日本のボトルネックは「失敗の本質」につながる「誰から見ても安全で正しいゼロリスク信仰」そのものが効率、時間、自由、イノベーション、豊かさを犠牲にしてると今の僕は考えてる。社畜として働き、格差が広がるばかりでは子どもを生む経済的余裕も、育てる時間も確保できない。

多少のミスを受け入れ、お互い迷惑をかけ、複雑な価値観や、グレーゾーンを許容する範囲が増えるほど、社会は自由に苛立たしく豊かになると思う。それは社畜のように働いて、ストレス過多で、ゆるやかに衰退していく社会よりマシではないだろうか。


これは選挙の話だが、会社で採用する「人材」もみんなゼロリスク人格で選んでないだろうか? けしからん奴がなんかやらかしたら人事部の減点になるが、品行方正な奴がなんかやらかしても人事部の減点にはならない。ゼロリスク採用で社内みんなが正しすぎる方向にばかり向かうと、けしからんいたずらで会社を破綻から助ける人は出てこれないかもしれない。