日本の役者がなぜ下手なのかという記事が面白かった

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日本の役者のオーバーアクション

基本的に日本の役者は皆「\演技中です/」というマークを頭上に出っぱなしでセリフを喋っている。たまに上手い人がいるが作中1人でもいればいい方で、殆ど全員が演技者としての最低限の役割程度しかこなせていない。

最低限とは「言葉が聞き取れて、その時の感情はどのようなものかが分かる状態」となる。これはストーリが理解できるための最低条件だが、実際はこれでだけでは不十分だ。上記を満たすだけなら基本的に誰でも出来る。中学生のクラス演劇でも可能だからだ。

そして大概の演者の表情や抑揚は普通の人間よりどこかオーバーなものとなってしまう。最低限の条件を懸命に果たすためなのだろうか。どれもこれも大げさになってしまうのだ。

本来要求されるレベルは、そこで確かに生きていた人の姿として、ありのままに見せることだ。これが難しいことはわかる。ただ役者として仕事をしている以上、達成されるべき水準のはずだ。少なくとも見ているこちらが恥ずかしい思いをするような演技はやめて欲しい。そう信じたい。

ベテラン俳優とされる人でも下手な人が多い。上述の最低限の役割を演じるのが「小慣れている」だけで、「記号」として優秀だが役者としては不十分だ。小慣れているだけの中堅、ベテラン俳優は多い。

ネットで昔こういうような記事みてから、気にしてなかったのに逆に気になるようになってしまった。確かに、こんなセリフ、こんな返し方する日本人いないよな。ハリウッドと比べると演技下手なんだなと。

で、それに明確に答えを出してる動画がこちら。

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日本人の「日常」は、ボソボソ喋って、普段から言葉の表現も曖昧でお互いに察する必要があり、わかりやすい感情を表に出さず、「お茶漬けを出す」みたいな裏表の機微すらわかりにくい。だから日本の日常をそのままドラマ化すると北野武の「キッズ・リターン」みたいな、演出で感情を表す必要があってかなりめんどくさいものになり、ハッキリしない登場人物達は気持ちの良い感情移入できるキャラでもなく、観客にも読み手としてのハイコンテキストが求められ、万人受けしずらいものになる。

そういった日本の「日常的リアリズム」をそのままドラマ化してるTVや映画はそれなりにあるが、いくらそれが日本アカデミー賞とろうが、面白いかどうかというと何かそれは違うわけだ。

それに比べてアメリカ人の「日常」は感情が非常にわかりやすい。普段から要求してることをハッキリ口に出して強く言う。その人物や日常を切り取ってそのまま「ハリウッド」にしても違和感がない。日本の「日常」はわかりにくいし、玄人には求められても、マジョリティな観客に求められるものではないわけだ。

だかな日本の俳優はわかりやすい「劇場型」になる。大げさで感情豊かに、溜めを作ったり、歌舞伎みたいになったり、日本人なのに生まれがアメリカ人みたいな演技をするわけだ。

そこで多くの人が「あの人ドラマは下手くそだけど、舞台は凄くうまいんだよね。」という評価が重なる。そりゃ舞台演出でボソボソしゃべったり、わかりにくい感情表現使う訳にはいかない。カメラのアップも、カット割りもないのだから、演出で表現できないところは思いっきりデフォルメしないといけなくなる。

元の記事は増田に転載されそこではデーブ・スペクターも同じように日本の役者はひどいとぶった切っているが、「役所広司」「樹木希林」「桃井かおり」「豊川悦司」はうまい役者だとデーブが褒めている。が、、この4人は全員「本人役」として出演している。

「役所広司」はどこでも「役所広司」だし、「樹木希林」はどこでも「樹木希林」、「桃井かおり」も「豊川悦司」も、求められるものの幅はあってもあくまで「本人のキャラクター」からは一切ぶれてない。彼らはドラマじゃなくても、例えバラエティに出ても、インタビューを受けてもドラマ内の「役所広司」だし「樹木希林」だし「桃井かおり」だし「豊川悦司」のままだ。彼らの日常としてのキャラクターをそのままドラマに放り込めば良い。

この意味でトレンディドラマに置ける「木村拓哉」や「織田裕二」は、とても重要な役割をこなしていたように思う。「木村拓哉」や「織田裕二」もまた、どこへいっても「木村拓哉」で「織田裕二」のままだからだ。日常そのままが絵になりカッコつけてるので、まったく演技に違和感がない。ただ逆にアニメ原作の劇場型である「スペースバトルシップ ヤマト」とかは違う。ああいう劇場型は逆に「木村拓哉」のままでいるわけにはいかないから違和感となる。

また「木村拓哉」としては近年いろいろ役者の幅を広げようともしてるが、それこそ「木村拓哉」が邪魔するだろう。年齢相応の役のチャレンジも難しい。本人がずっと「アイドル木村拓哉」という立場から離れられなかったから。だからSMAP解散は変わるチャンスかもしれない。

ちなみにアニメの声優は「劇場型」だろう。アニメはいろいろデフォルメされわかりやすく、ハリウッド以上に派手でカッコつけても違和感はない。舞台が日本でもアニメなんだからそこは非日常だ。肉体の演技力を手に入れたら舞台もこなせるかも、、というか兼業してる人、すでにかなりいるな。

元ブログの「シン・ゴジラ評」にもあるが、だからこそ「宮崎駿」は自分のアニメにあまり「声優」という「劇場型」の声をあまり使いたくないのだろう。声のプロでない「俳優」のほうが宮崎駿にとってはまだ自然な声に聞こえると。だからこそのハウルでの「木村拓哉」の採用だったのかもしれない。自分自身を演じる自然体な本人だから。だからこそ「風立ちぬ」では「俳優」ですらない「庵野秀明」の採用だったのかもしれない。予告を庵野が棒読みしてたのはものすごく心配だったが、アニメ内のセリフはあまり違和感なくよかった。


『風立ちぬ』予告編特別フィルム 4分13秒

 

さて、日本のドラマはこういう「演技が下手」という批評にどう対抗したらいいのだろうか?

「TRICK」や「リーガル・ハイ」などはコメディ要素が多く入ってるので劇場型に合ってる。「半沢直樹」など、全員が追い込まれてるので「登場人物全員劇場型」タイプのドラマも善悪わかりやすく問題ないと思う。また、日本版ターミネーターこと「家政婦のミタ」など、シュワちゃんみたいに主役がロボットであれば難しい演技をする必要がない。家族の演技に違和感があっても、主役がそれを吹き飛ばすぐらいぶっ飛んでるから面白い。


しかし、もっといろんなドラマやろうとしたとき、それを演じれる役者は足りないだろう。上に書いたような本人をそのままドラマに放り込めば成立する役者が引っ張りだこで足りない。実際は足りないと言うより、それぞれ劇場型でドラマ演じる役者が「普段の日常でどういう人物か」ということを監督やプロデューサーに認知されていない。むしろバラエティ出身の大泉洋のほうがどんなキャラクターわかりやすくて使いやすかったりする。

とすれば日本の役者は「普段の自分そのものがどういうキャラクターなのか」「普段どういうキャラとして生きているか?」ということを「バラエティ」なり「Youtuber」なりでかなりアピールする必要がありそうだ。ゆっても普段の生活を悪役とか、しみったれた貧乏人のまま生きていくには厳しいものがあるだろうが、孤独で不器用な人間を演じるのは、役者としての面接すらうまくいかずカメラが回ってないところでの礼儀や付き合いを欠かすぐらい常識に欠けてるやつのほうがいいかもしれないし、底辺役には底辺の芸人とかのほうがそのままの日常を持ってこれるかもしれない。

今の日本のTVドラマはかなり斜陽で厳しいものがあるが、劇場型からの脱却と、配役の違和感の無さ、「日本のリアリズム」のまま、それをわかりやすく、面白く演出する事ができれば、化けるかもしれない。