teruyastarはかく語りき

TVゲームを例に組織効率や人間関係を考える記事がメインのようだ。あと雑記。

ひろゆきという悪が受け入れられる社会の方がよくない?

 

anond.hatelabo.jp
これずっと気になってたんだけど、ブコメの意見はなるほど。
みんなルールや秩序をきちんと守る事で社会への被害や自分への被害を止めたいんだね。

個人的にはやはり書き込んだ人が訴えられるべきで、管理するひろゆきが無限に増えていく全ての訴えに代理弁護人を立て続けるのは違うと思う。法も2chの運営もシステムも追いついてなかった。

例えば教育委員会のトップが、全国のいじめ問題に対して自分で無限に代理弁護士を立てていくなんてことはしない。校長や現場の先生は2chの削除人に当たると思うが、何を削除するか、何をいじめと判断するかはそれぞれ懇意的な思いがあっただろう。そういう現場の運営に腹が立つのはわかる。

あと、ひろゆきが自分の質問にちゃんと答えずはぐらかす人に対して、小馬鹿にした感じできつく詰めていく態度はムカつくよね。それはわかる。はぐらかす人もいろんな所に気を使って断言もしたくなければ、言質も取られたくないし、その話したくない

ひろゆきを批判する人でも、当事の2chを運営することも、教育委員会のトップに立っていじめを全部対処することは出来ない。誰でも対処不可能だろう。しかし少しでも改善しようとする努力やその姿勢こそが大事で、ひろゆきにはそれが見られない。そこで嫌われるというのもわかる。ひろゆきを批判する人だったら汗かいて深夜残業して休みなしでも、社会のルールを守るため、全部真面目に対処しようとするだろう。

この、どうしようもないけど、本人は真面目に社会的秩序へ対処する姿勢を見せるのみってのは個人的に評価できない。

無限に増え続ける訴訟に真面目に全部弁護士立てるより、やはりプロバイダ責任法とか、訴えたとき発言元を開示できる方が良い。いじめも校内全部にカメラつけるとか、大学みたいにクラスという概念をなくすとか、いじめが多発する休み時間という概念を消すなり、先生が準備や移動で教室から消える時間をシステム的になくす方がよい。そこまでしちゃうといろんな働き方や学び方を変えないといけないデメリットもあるが、常識や法や善悪をゼロから考え直すほうが良い結果になると思う。


あと2chでの書き込み批判や誹謗中傷やいじめっ子が「悪」という前提が疑問なんだよね。

現代のネットの炎上たくさん見てきたが、批判や誹謗中傷、構図としていじめっ子側にいる人の方が「正義」で批判や誹謗中傷でいじめられ、炎上してる側が「悪」というパターンは多い。ひろゆきを安全なところから批判、誹謗中傷しつつ、いつ自分が被告や原告に立たないとも限らない。

僕は子供の時いじめられっ子だったが、自分の「悪」に心当たりがある。「自分に自信がない」「男のくせになよなよしてる」「はっきりしゃべれない」「非暴力主義で絶対やり返さない」こういうのは、ハッキリしゃべる男らしいいじめっ子からすれば、苛立たしいものである。ちょっとしたからかいや冗談でさえ、僕の態度は「俺は非暴力をつらぬいて耐える。お前も聖人君子であれ。」という言外のウザイメッセージとなる。そりゃいじめられる。なんなら最初に相手を否定して攻撃してるのは他人に聖人君子を求める僕の態度である。

いまならその態度や振る舞いが他人を苛立たせるのは分かるし、相手も同じ子供なんで心を広く持てというのも無理だ。このパターンはネットじゃ「いじめっ子が100%悪い。例外はない。」と言われがちだけど、みんな自分のネットの振る舞いを振り返ってどうだろうか?

teruyastar.hatenablog.com
増田の話は、ひろゆきがデジタル庁断られたという孫さんの話から来たものだ。

僕らが社会秩序を守るため、自分が被害に合わないよう、みんなが被害に合わないよう、悪を裁き、社会的に責任ある立場、自分の上に立つ人はより聖人君子に近い人を求めるその姿勢。

では自分自身が聖人君子となって、社会を引っ張っていこうかというとみんなそれはしない。自分ごときと謙遜し、叩いてるからこそ叩かれる側には立たず、人によっては卑屈になって「自分ではダメだが、上に立つ人は当然聖人君子を求める」とみんながみんなそう思う日本社会。

そういう正しい秩序を限りなく求める社会は、みんな管理職も管理人も社長も政治家にもなりたいと思わない。自分が聖人君子ではなく、他人に聖人君子を求めるから。聖人君子でなければ昇進してもやっかまれて叩かれるので、誰も昇進したいと思わない給与が安い貧乏な社会になる。

実力はないが過去にミスがない無能の聖人君子ばかりが上にあがる社会。

そのわずかな聖人君子も、文春砲やマスコミやTwitterにずっと狙われ続ける社会。

子どもにも限りなく正しさを教育され、聖人君子でない、空気を読めない、大人の振る舞いができない子ども達同士でいじめが発生する社会。

キャンセルカルチャーや、ネットの炎上が毎週どころか毎日発生して目立つ人を燃やし、引きずり落とす社会。

こういう日本社会を作り上げる思想って「正しくも正しい聖人君子ばかり求め、悪を一切許容しない我ら市井の民」から来てると思うんだよね。なのでもうちょっと「善悪抜きで多様な価値観を…」というと抽象度高いはっきりしない言葉なので「もっと他人の悪を許容したほうが楽な社会になるよ」と言いたい。

ひろゆきみたいに法やルールの抜け穴をついてきた奴が、セキュリティや国の抜け穴管理した方がよいと思うし、フランスの政治家が不倫しまくりでも政治家として有能だからそのまま仕事してるのもありだし、なんなら田中角栄がロッキード事件で逮捕されても「おまえの財産は全部没収だが、政治家としては優秀なんで総理を続けるのは許そう」というのもありかと思うんだ。

悪に寛容といってもなんでもかんでも許すわけじゃないが、ネットの炎上に当事者でない自分が怒る必要はないし、ポジショントークとしてもずっと柔らかくできる。もうちょっとネットで叩かれてる人に甘くなった方が、みんな生きやすいし、芸能人をTVやライブからみんな引きずり下ろしたり、作品非公開にしたり、役者入れ替える必要もなくなるのではないか。

大人がいろんな価値観に寛容であれば、子どもにも伝わり、他人に正しさを求めるような狭量ないじめも少しは減るだろう。

不完全な自分が目立っても、役職についても叩かれないんだと思えばもっと社会は豊かになれるだろう。むしろ他人を叩く人ほどそれを怖がるわけで。

他人に聖人君子を求めるというのは、自分にもそういう制限をかけてしまうから、どれぐらい多様な価値観を受け入れられるか。自分が勝手に「悪」と思い込んでたものを、いろんな視点で見て許容できる事が増えるほど、他人に聖人君子を求めないほど、自分も社会も豊かになれると思う。不安や怒りそのものに自分が毒されてなければ、自分が怒るほどの問題なんて生涯そんなにないよ。