teruyastarはかく語りき

TVゲームを例に組織効率や人間関係を考える記事がメインのようだ。あと雑記。

なぜ悪に対して一定の敬意が必要なのか?

www.jiji.com
今日も森会長は追求され、そこまでせんでもという擁護燃料が投下されている。
森の偏見は責められて当然だろう。

しかしTBSラジオ澤田記者が「そういう方が組織委の会長に適任なのか?」と当の本人に詰めるのは、ミスした部下や子供に自白させるパワハラかつ自主性を奪う叱り方だ。
これを何度もやられると、叱る方も叱られる方も空気を読んで他人の目を気にして生きていくようになる。ひいては村社会となり、組織は硬直し、心身を病みやすくなる。


ポイントは叱る側までより他人の目を気にする村社会化することだ。これまで野党だった党が第一党になって政権がうまく行かないのは、自分自身で批判した側に立つと批判したほとんどが自縄自縛となるから。自身の一貫性を保つためには政策を実行する側でなく、生涯批判する野党であり続けなければならない。

そもそもあいつがやらかしたから、あいつが態度を変えないから悪い。だから俺たちは罵詈雑言を浴びせ、仲間からハブり、心から謝罪するまで絶対許さず、死ぬまで追い詰める。と、叱る側が何言ってもいいならいじめになる。

先にミスした側は反論を許されないので詰める側はやりたい放題だし、詰める側は自分の正義を疑ってないので、その詰め方が注意される事はない。今回の森会長へも女性差別を責める人が「老人差別」「政治家差別」「男性差別」とやりたい放題だったが、みんな差別をなくしたいじゃないのか?

殺人したあいつは悪いやつだから、みんなであいつを殺そうという正義が盲点となる。

いま日本全体で「悪い奴はこういうふうに死ぬまでみんなで詰めたらいいんだよ」と要領のいいいじめ方を社会と子どもたちに教え、その共犯となってる。正しいことを言ってるだけで、正義を執行してるだけでいじめてるつもりは全くないのだが、子供のいじめだってみんなの正義感で行われる構造だ。例え何もしてなくてもみんなと考え方や価値観が違うというのは、他のみんな正義や見栄や承認欲求そのものを否定する悪という事になる。

悪いことしたやつに一定の敬意や理解を示すというのは、まず「悪の理解者であり、味方である」というところからスタートし、悪に至る内面の開示を見る必要があるから。そもそも悪は存在せず、正義と正義のぶつかり合いでしかないと考えたほうが理解しやすい。

森会長に向けては一定の敬意と理解を示し味方となった上で、女性の会議が長くなるわけではないという森会長の常識を覆すデータや事例を淡々と提示し、実際の会議を計測しつつ「森会長自身の話が40分以上となってます」と味方として笑いながら証拠詰めて、最初の女性委員の話も聞き、なぜそういう誤解が生まれたのか? ジェンダー下位の日本として無理やり形式上の女性委員を登用しなかったか? などをなんなら3人で対面して和解する必要がある。


TBS記者は、度重なる詰問で森会長をキレさせ、PV稼げる「おもしろおかしくしたいから」という言質取れただけで成功だし、社会正義のためとしても、さらに炎上させたおかげで女性差別問題を何歩も進展させたのは素晴らしい功績だろう。

森会長やアクロバティック擁護を叩く人も、それに便乗する市民の声としてよりよい社会を築くための力となってるだろう。

ただ、そこに至る詰め方には空気読む村社会的副作用をさらに強化し、味方と思ってる人達が、さらなる誹謗中傷や逆差別やいじめを推進するかのような声も大きく、そういう詰め方や味方こそ森会長以上の無意識で差別の害となるので諌めるべきなのだ。

この「無意識の正義」というのは、自分自身の一番の盲点となる。自分で気づかないから盲点なので、僕自身も気づいてない差別や副作用が多々あるだろう。

ゆえにあえて「悪の正義」側に立つのは、悪いことしたやつの身内のように一定の敬意と理解を示すのは、自分自身の盲点を少しでも減らし、村社会とならず、人の目を気にして与党としてやりたいことやらず、何もせず一生誰かを批判するだけ終わる鎖や呪いを無意識で自分にかけないため、一生誰かに怒り狂って終わらないよう心の平穏のための考え方である。

森会長の偏見は容認できないが、どんな悪(正義)にも一定の敬意を忘れてはならない。

しかし、あくまで自分自身の心の話である。
究極的には罵詈雑言や、逆差別で正義執行する子供に対しても敬意は忘れず、自分の背中を見せるしかないのだから。