teruyastarはかく語りき

TVゲームを例に組織効率や人間関係を考える記事がメインのようだ。あと雑記。

日本人はどこでサービス過剰精神を植え付けられるのだろうか?

このスレッド面白かったのでメモ。

この自分を犠牲にしてでも完璧サービス提供する姿勢は、社畜根性と同じ。行き過ぎたら社畜も母親も鬱になる。ゆえに性差ではなく、僕ら日本人の多数派が自分を犠牲にしてでもサービス過剰なおもてなしに徹する呪いにかかってるのだろう。

よくホットエントリーで、いかに女性の子育てや家事が大変か上がってくるが、根本的には男女ともにこの呪いにかかって自殺大国ではないだろうか?


自分の若い頃もひどい社畜根性から自分で仕事増やし、キャパ以上に抱え込み、自分で苦しみながら周りに当たり散らしてた覚えあるが、これはどこから来たものなんだ?

思い当たることで、
子供である家庭で主導権とれないこと。
学校でも先生やクラスの空気を読む場所であること。
部活も先生、先輩の上下関係やルールでやはり主体的に動く事なく。
会社も同じ。
むしろ資本主義で時間外までがむしゃらに「頑張る」のは正義だった。技術のない若い人が追いつくにも、他社を出し抜くにも。特にクリエイティブな業界とか芸能、スポーツ、お笑いなんかもそうだろう。そういう力学は普通に働く。技術がない若者がそこで頑張るのは否定できない。

ブコメの方に的はずれな批判が星集めてたりするが、それも呪いの一つだろう。
他人に批判されないために生きていると、さらに社畜に走る。
そういう事を言われたくないため、それを言ってる人はより強い呪いにかかる。



しかしみんなが「世界一の子育てサービス」を目指す必要もなければ、「世界一のサラリーマン」を目指す必要もない。もし周りの目を気にせず、自分が主体的に戦略をもって行動するなら、自分を犠牲にしない余裕の作り方に少しづつシフトしていくはずだ。会社の仲間のために自己犠牲をともなって働くのではなく、自分の余裕があって次に会社の仲間のために働く。余裕を作るキャリアのために転職計画をする。

資本主義の力学と、真面目に働きすぎる日本人はとても合致していただろう。高品質な製品、多機能すぎる製品、正確で過剰なサービスがJapan as No1にまでなった。しかし資本と搾取のバランスはもう崩れてる。雇用形態がソフトウェア開発と合わず、アメリカを真似てより良い製品を作れない。

日本人は周りの目を気にしすぎ、自主性がなく、ほっといても鬱になるまでサービス過剰に働く傾向があるから、家庭や学校教育においてはより自主性を高める教育にシフトしていくべきかもしれない。

具体的にいえば40名の生徒に、遅い子に合わせて黒板を板書させるのではなく、生徒それぞれが自主的に学習すすめるのを先生がサポートに回り、それで手が足りないところは、できた生徒ができてない生徒に教える事でより理解を深めるとか。方向性としては「子供に教える」のではなく「子供と一緒に考える」。大人だって社会や勉強のこと、本質的によくわかってないのだから。

ゼロから子供と考えたら、今のルールや環境がなぜあるのか?
それが本当に必要か?
時代に合わせてどう変えるべきか?
という仕組みの発見になる。

若いうちによくやる
「うちの会社や上司や政治がダメだからこう変えていかねば!」
だけでは「ではなぜ、その環境やルールができたのか?」という根本原因を突き止めれないのでやらかしがち。


逆になんで今の自分は社畜じゃないのかというと、
「周りの目を気にしないでいい自信」
「最低限食っていく自信」
「ゼロから環境や仕組みを考え直す思考、哲学」
「仮に貧乏底辺でも、挑戦しつづける事そのものが幸せだと、足るを知る」
「メメント・モリ」

半分は技術的な自信で、それが陳腐なものでも
もう半分は哲学的な思考力から主体性が生まれるということになる。
ゼロから考えるクセをつければ、屁理屈でも自分でなんでも作れるという根拠なき自信になる。


子供のため、お客様のためならどんな自己犠牲払っても構わないという努力根性の思考は土台が潰れてしまうのでよくない。まず自分の余裕を確保してから子供やお客様にサービスできるか、汗より知恵をたくさん振り絞る。緊急時の努力根性は仕方ないし助けも呼ぼう。平時に余裕を作る知恵と主体性の話である。