「作り手としての志が二次創作っぽい人」で「良く言えば原作に対して山崎貴流の解釈というのを毎回している」と評し、「彼が美談として提示するものに、割とはっきりとした倫理的違和感を抱くことが多い。
ドラえもんは見てないが、山崎貴監督にこの評価はすごくしっくりくる。監督が思う感動やひねりやオチなどをなんのてらいもなくストレートに提供してくるので、哲学が練られてないような、いろんな視点で原作を深堀りしてないのか、原作ファンや玄人批評からどう思われるのか、あまり気にしないようでもある。
ただ、その姿勢はヒット作をどんどん作るという命題において結構重要な事ではないだろうか。例えば自分が感動した物をあえて深堀りせずそのままの熱量をもってそのままの勢いで届ける。これをすると当然いろんな視点の見落としは出てくるが、勢いそのままに一つの形ができあがる。ちょうどYoutube中田大学が、自分の興味ある本を読んだ勢いで熱が冷めないうちにそのまま動画紹介しはじめる事に似ている。
その熱量や自分の感動を伝えたくて、映画として自分の作品としてそこにネタを一捻り加えれたら完成。
押井守のように作品で深い哲学を語られても売れずに困るし、逆に原作を読み込んで原作ファンや玄人批評にケチをつけられない完璧な作品を作ろうとするほど高畑勲のように制作はポシャる。
少年ジャンプが「新人」と「若手編集者」のコンビで続々ヒット出せるのは、そこに「若さ」からくる「互いに物を知らない勢い」という理由も一つあるだろう。ベテランになって考え込むほど、自分の作ってるものの矛盾が許せなくなって手が止まる。ハンターハンターなんかはかなりその袋小路にハマっていて、初期の幽遊白書はもっと浅い中二病みたいな漫画だったが後半結構凄いことになっていった。
スピルバーグも思いつくまま「ジョーズ」「未知との遭遇」「E.T」「インディージョーンズ」「ジュラシックパーク」など作ってくれる事が望まれたはず。しかしハリウッドNo1監督が「シンドラーのリスト」で初のアカデミー賞を取ってから、わかりやすく面白いヒット作からは他の監督に任せたり一線を引くようになる。もちろんスピルバーグは新しい境地も面白いからいいのだけど。
「とりあえずやってしまえ」というのはシリコンバレーなんかのITサービスでも、次々に未来のビジョンを提示するイーロン・マスクすら、未来が面白くなるという初期衝動があれば走ってるうちに修正すればいい感じだ。ヒットした企画やサービスなんかも「最初から物を知ってたら絶対手をつけなかった。素人で何も知らなかったから走り出せた。」という事は多い。
作品を深化させないという意味では、音楽業界で同じダンスミュージックの繰り返しでトップチャートを5年以上も独占した小室哲哉は、映画SPEED2で世界進出を視野に入れたり、globe後期からより最先端の音楽を取り入れてトップチャートから離れていった。同時期にライブ動員記録を打ち立てるGLAYなども音が進化して、これまでのGLAYの音楽とは全く違う音が流れ始める。CHAGE and ASKAは「ひとり咲き」や「万里の河」などの演歌ポップスという原点から、トレンディドラマにあったロック路線で大ヒットし、MTV出演や14カラットソウルとの楽曲共演などでさらに音楽性が進化し、それはとても良い曲だったが、演歌ポップスの原点に戻ることはなかった。
しかしB'zはずっと「洋楽に憧れるギターキッズ」のまま、時代との変化はあれどやっぱりB'zの音楽でありつづけた。サザンオールスターズは初期から実験的作品は数あれど、やはりここぞというときはサザンのいつものメロディでありつづけた。より大きな展開や深さは狙わず、ファンに望まれる自分達の原点に帰ってくるのだ。
これらの例で、山崎貴監督を同列に語るつもりはない。もちろん理想的には原作ファンも、玄人批評からも深く評価されたうえで大ヒットが望ましい。しかしそれができる監督と、もっと大衆娯楽として望まれる映画監督や作家ってのは違うかもしれない。普通歳をとっていくと「もっと新しく、深く、評価される、これまでと違うものを」とアカデミー賞狙うはずが、あまり深みにはまらずわかりやすいヒットを狙い続けれるのはひとつの才能なんじゃないだろうか。