teruyastarはかく語りき

TVゲームを例に組織効率や人間関係を考える記事がメインのようだ。あと雑記。

偏見を正す社会であるべきで、偏見な人を基準に社会を作るべきではない


まさかルックバックについて2度めの意見を書くことになろうとは。
この記事は、この判断が個人的に良くない修正だと思う意思表明だ。

改変は青葉容疑者の発言と何かを混ぜたようなものから、ただの通り魔になっている。
ルックバックは京アニ事件2周忌の翌日0:00に発表され、昔「長門は俺」というペンネームだった作者の事件に対する思い入れは相当強かったはず。作品から青葉容疑者の要素を抜いたことで、ルックバックが京アニの事件に向き合わなくなってしまった。


そして、ただの通り魔はより弱い存在を狙うので、若い学生の多い美大狙いは整合性とれない。美大は京本のような弱々しい引きこもりの女性ばかりではなく、逃げられたり反撃される可能性が高くなる。反撃できない老人や子どもが狙われやすい。それでも美大を襲撃に選ぶなら何かしら絵や美大にこだわりがあるかのような修正が必要だ。

夢叶えた主人公達と、夢破れた加害者の対比もなくなる。何かが違えば同じ絵を描く仲間やスタッフだったかもしれない人の1人だ。


修正は批判が多かったためだろう。はてなのホットエントリーでは3人上がっていた。

togetter.com

anond.hatelabo.jp
上の2つはリンクもつなげてて同一人物。

mmkanimm.hatenablog.comかにの人と。

 

note.com斎藤環氏。

 

note.comホッテントリではないがもうひと方。

amamako.hateblo.jp統合失調の解説をしてる方も。



ルックバックに対してこういう批判はあってよいと思う。
実際彼らが声を出してくれるおかげで統合失調に関して理解が進むからだ。
事件そのものではなくルックバックだからこそ叩き台として話を進めやすい。

しかし修正されたことで、以降の人はルックバックを引き合いに出すことが難しくなった。修正前のスクリーンショットを保存してなければもうルックバックを元に統合失調の話はできない。仮に保存しても修正以前のものをわざわざ引き合いに出せば、それもまた別の批判の対象になるのではと気後れしやすくなる。

修正前の表現で偏見が助長される人の偏見など、これでなくなるわけじゃない。
臭いものに蓋をすることで、統合失調を語る材料がひとつ消え、理解が進まないほうが問題だと思う。

自殺の仕方なり、爆弾の作り方なりなどのヤバイものでなければ、表現したものを消すより、上の5人のように当事者なりがきちんとカウンターを当てるほうが良い。ルックバックがあったから5人のカウンターがあって、少し統合失調に関しての偏見が解消される。臭いものに蓋を、表現に蓋をしては、偏見へ逆効果だ。摩擦があってこそ理解は進む。

ドラえもんや、こち亀などは何度も同じ箇所が修正されてるようだが、当時の漫画の空気感や味、歴史を観測することすら損なう事になっている。今回の修正で別の偏見や、別の傷ついた人や、別の批判があればそのたびにジャンプ+は修正を繰り返すのだろうか? 


もし偏見やヘイトを撒き散らす人を基準に法や表現を規定して社会を作るならとんでもなく息苦しい社会になるだろう。昨今はまさにそうなろうと動いているが、偏見やヘイトをする人をなだめる社会ではなく、偏見をみんなの意見で正しく理解する社会にしていくべきだろう。せっかくみんながSNSという強いメディアを持った時代なのだから。

逆説的だが人は偏見をしないという前提で法や表現で社会を作る方が、多少摩擦が起こってる方が、マイノリティへの理解が進み、結果的に健全になると思ってる。隠して蓋をするほど歪みが深くなりそのズレは大地震となる。面倒でも前者のほうが払うコストは低い。ルックバックは修正前こそよかったのだ。

kp-jinken.org

青葉容疑者は犯行動機として「自分の小説が盗まれたから」と語り、精神科受診歴もあったことから、その発言は「病気ゆえの妄想」であるかのように伝えられました。「精神疾患による犯行」と決めつけるような意見もありました。

しかし、精神鑑定を踏まえた地検の判断は「責任能力に問題なし」。凶行は重い精神疾患による支離滅裂状態で引き起こされたのではなく、青葉容疑者自身の歪んだ感情の問題であると判断したのでしょう。

では逆恨みで36人を殺すような歪んだ感情は精神疾患とは呼ばずなんと表現すればよいだろうか? 精神疾患という言葉の範囲が広すぎかもしれない。

「歪んだ感情で、ちょっとしたすれ違いで、逆恨みの勢いで大量殺人をしました。これは普通のことで、健常者みんなにその可能性があります。」という論を以下に展開するが、それこそ普通の人には青葉と同列に並ぶのは受け入れられないだろう。

上の5人に足りないのは、普通の人が納得する青葉容疑者の心の状態を「精神疾患」意外で表現する別の言葉だ。青葉容疑者の心の状態に名前がついてないから「精神疾患」がまとめて偏見の目にさらされてしまう。普通の人が思う「自分は絶対青葉になるはずがない」と安心するために、歪んだ感情の名前が必要だ。

この精神鑑定に関しては結構グレーだと思う。これだけの殺人事件が心の病で罪に問われないというのは国民感情としても納得いかず、仮にどれだけ心を病んでいたとしても責任取るのは妥当だろう。



kp-jinken.org

斎藤環氏や、神奈川精神医療人権センターなどの現場の苦労や頑張りには敬意を払うものであって、ヘイトを向けるものではない。

落とし所として病の理解は、自分自身を理解するのと同じ。
自分含め地球のいる70億人全員が、精神疾患にかかってると思えば良い。
僕もあなたも、いつ夢破れ、物理的病気に苦しみ、居場所を追われ、人生のどん底に突き落とされ、誰も助けてくれず、心が壊れるか分からないのだ。格差が広がりヘイトが溢れる世の中だからこそ、この先誰でも鬱になる可能性があり、誰でも統合失調になる可能性がある。絵を描いてる人は絵に罵倒されるような感覚を味わう事はないだろうか? それが殺人につながるわけではない。しかし、青葉は僕らの延長線上にいる。


ルックバック内で夢叶えた藤野達と、夢破れた犯人も同じ線上にいた。絵をパクったというセリフが消えたり、幻聴が消えたのは、僕らと青葉、僕らと精神疾患、僕らと統合失調の線を無意識に断絶するものになってしまう。ほんとに今後僕らや仲間がああならないと言い切れるのか? なにかの環境や運や生まれでそうなる可能性はなかったか? 僕は人間何かしら心を病んでるのが普通だと思う。

不用意にセンターを怖がって、黄色いヘイトの旗を立てるのはすでに片足つっこんでる状態だ。恐怖を遠ざけるというのは、正しく理解するということだ。知らないから怖い。ルックバックを怖がるのではなく、正しく理解してもらうことが大事だ。センターを遠ざけることではなく、表現に蓋をすることでもない。

なにかの事件が起こったり、その事件をモチーフに描く以上、それを見て知った自分自身に必ず自覚のない偏見は生まれる。自分の偏見にも向き合っていくしかない。


なお、「修正は個人的に間違ってると思う」であって「修正は間違ってるから元に戻せ」という意見ではない。ルックバックの修正は誤った修正例のひとつとして代々語り継ぐため、そのまま残しておくべきだ。この修正に向き合うため蓋をすべきではない。


追記1:
作者と編集が折れて修正受け入れたなら僕の批判は敬意を欠くことになるが、100日ワニと同じく作者よりまず作品に敬意がある。政治前提の読者分断を仕掛けるクソ記事すら守ったゲームスパークの方が編集としては正しい。

 「誰でもよかった」が1つ目の修正コマだが、修正前は新聞ごと描写してあり、漫画家が修正するならここは同じフォントや新聞紙描写もあると思われる。

また、子供の時京本の絵に比べられ、絵を罵倒され、後に筆を折った子供藤野と絵から罵倒される心象風景の犯人が重ならなくなる。(修正後は、子供藤野自身ではなく「絵ばかり描いてるとオタクになるよという同級生側に犯人のセリフは近くなる」)

犯人と藤野の重なりが甘いと「あれ? 京本死んだの私のせいじゃん…」で入っていく心象風景のつながりとも弱くなる。

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そして、1ページめの修正告知に作者の名前がなく編集部のみなこと。

togetter.com

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「はいからさんが通る」だと差別表現修正しないむねが作者、編集の連名になっている。藤本タツキは説得に折れても自分で修正しない抵抗をした可能性はある。もしそうなら集英社は作家の表現を守り堂々としてるべきだろう。


京アニ事件の文脈を読み取るか、シーンをどう解釈するかは確かに読者の自由。それを読み取れるように描かれていて、それも作品のメッセージのひとつとして僕は受け取った。修正でなかったことにされてこの記事で批判した。それで終わり。


追記2:

www.jiji.com

集英社広報部によると、「作者側から修正したいと申し出があり、編集部と協議の上で決定した」という。修正部分や理由については「説明することで偏見や差別を助長する恐れがあるため、回答を差し控える」とした。

であれば、連名にしなかったのは作者を批判から守るジャンプ+の配慮であり、問い合わせや抗議にたまりかねた集英社が漏らした形になる。そして僕の批判は作者である藤本タツキに向けられる。

熟慮してどういう経緯で修正するに至ったかが説明されない限り、お互いの理解は進まず、犯人と自分とを延長線上に考える切っ掛けを失いここで終了だろう。例えば作者側に批判だけでなく実際に自殺するという宣言や、追い込まれてる相談があったのかもしれない。

僕としてはそれで意見を変えるつもりはなく、パンツ脱いで裸になって数百万人の心をえぐる作品を描ける表現者というのは、表現そのものが人を殺すというエゴと覚悟が必要と考える。例えば裸になって人の心をえぐったエヴァで人生が悪い方向に変わったり、間接的に死に至った視聴者が10人単位でいてもおかしくない。それこそ庵野は殺人予告を何度も受け、大批判され、表現の代償にそれらの呪いを背負って生きていた。

それでも修正すべきは偏見と捉える自分自身の心や価値観であって作品ではない。表現のエゴは人の命より重い。強い作品は人を殺す。全ての読者を同じように対応できなければ、それは自分が決して犯人と同じ線上に立つわけないと考える無意識の差別である。作品を作り偏見に屈せず、庵野やはいからさんのように厳しい態度を貫けるか。それでも一部の読者は弱い人だと優しく差別するかの判断は人それぞれ。

修正への批判はここまで。修正の経緯を説明するとまた誰かを批判することになるのか、ここから何も出てくることがない以上、あえて作者が説明しないという判断は尊重しよう。