teruyastarはかく語りき

TVゲームを例に組織効率や人間関係を考える記事がメインのようだ。あと雑記。

「そっちこそどうなんだ主義」と「おれこそどうなんだ主義」

 「ワッタバーイズム」「そっちこそどうなんだ主義」という名前がつくと確かに自覚しやすい。でもこれよくやるなあ、、、

いまイエスが生きていたら誰かを批判するとき、

「この中で罪を犯してないものだけがブクマをつけなさい、togetterをまとめなさい。」

とおっしゃられるのだろうか。

完璧な人がいない限り、そっちこそどうなんだ論法でいくらでも問題を拡散できる。いや、そもそも物事でいう完璧とは一定のルール内、フレームワーク内で限定してこそであって、そのルール、メタ構造を定義しなおせばどんな完璧さすら批判返しができる。極論をいえば「ワッタバーイズム」こそどうなんだと批判を作ることができて、ブクマが2階、3階に上がっていく感じか。

そっちこそどうなんだ論法は、主語をどんどんでかくし、お互いそもそも論から批判し直され、延々と「恨み」「憎しみ」「欺瞞」を膨らませ心の闇をひきずり何年も何年も拡大しつ続ける。

でも、自分でブサイクというのはいいけど、他人にブサイクと言われるのは腹立つしなあ。そりゃ「そっちこそどうなんだ」といいたくなる。完璧な美人、美男子でない限りワッタバーイズムで反撃するでしょ。そして完璧な美人でも、「心がブサイクだよね」とメタ構造の上にマウントしてワッタバーイズム発動でしょ。俺が間違ってるのは理性で理解できても、感情的に「お前には絶対言われたくない」みたいな。

別に感情で怒った時ワッタバーイズム発動していいと思うんだよね。ただ相手の攻撃を返すのと、自分を顧みて反省するのとを同時に行い、ブサイクでもモテるよう筋肉をつけてスマートになったり、人に優しくしたり、知性や特技を磨いたりと「そっちこそどうなんだ」と「おれこそどうなんだ」というI'm about ism、「ワッタバーイズム」と「アイマバーイズム」を同時に発生させれば、何年も何年も正義感コンプレックスの闇に引きずり込まれないですみそうではある。