一度に2つも3つも解決するアイディアとは、複雑な事象の「哲学」を見つけることじゃないか?
HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN - 1101.com
「アイデアというのは複数の問題を一気に解決するものである」
という宮本茂の名言がある。
一生懸命考えて部分的にひとつ改善しても、副作用で他にしわ寄せがいっては全体の解決にはならない。むしろ部分最適化は副作用が悪化することが多い。この考えの延長線上に全体最適化がある。
ザ・ゴール2 という全体最適化を語る本では、「コンフリクト」という雲の対立みたいな紹介がされている。マインドマップのように周りの環境全ての条件を漏れなく書き出し、その複雑なコンフリクトをどう解消するか一生懸命考える方法を取る。
これって、複雑な事象の「哲学」を見つけることが、複数の問題を解決するアイディアそのものじゃないかと思った。
例えばWindowsプログラミングで悩んでるとき「あ、Windowsってどのパーツもボタンすらも全てWindowsと考えればいいのか。プログラムのどこを覗いてもカプセル化されていて、いつでもカプセル機能追加できて、いつでもその機能を問題なく削除できればいいと。」みたいに、悩んでるその事よりも一つ上の抽象度の哲学を発見できるといろんな問題が解決することがある。「あっ、そういうことか!」と。
取り組んでる事象の「哲学」を見つけた人は、そのレベルの「哲学」に当てはまる形で再生産して物を作り続けることができたり、ヒット作を作り続けることができたり、スポーツ選手として活躍し続けたり、組織を維持できたりするのではないか?
その「哲学」に至らずヒットした人は、一発屋で終わる可能性が高い。自分がどうして上手くいったか、事象の根底を流れる「哲学」を発見してない偶然の成功だから。
例えばお笑いの世界のビッグ3、タモリ、さんま、たけしは、単に頭が良いというだけではなく、タモリはその膨大な雑学、たけしは高度な数学までこなす明晰な頭脳、さんまは仏教哲学に至る思考など、みんな何かしら「哲学を語る人」だ。
では、その人が語る「哲学」を聞けばその哲学が得られるかと言うと、残念ながらそれはできない。言葉で語られる「哲学」の裏には膨大な文脈があって、それこそ色んな事を悩んで、考えて、ひたすら「なぜ、なぜ」と深く物事をさかのぼり続けた末での「言葉」だからだ。
同じだけ悩んでその膨大な文脈を共有していなければ、言葉で伝わる「哲学」などピンとこないし、わかったような気にしかなれない。自分で「なぜ、なぜ」と物事を深くさかのぼって考え続けて自分の言葉で「哲学」を語らねば理解にいたらない。
だから、一生懸命憧れの人に付き従って、真似して、努力してという、文脈考えないやり方では結局「哲学」は手に入らない。その憧れの人の真似は、事象の「哲学」をひたすら掘り下げて自分で構築するところから初めないといけない。哲学があるレベルに達して初めて憧れの人が何を語ってるのか分かるようになる。哲学の下にまた、膨大な哲学があるのでその探求に終わりもない。時代もどんどん変わっていくから浅い哲学のままだとすぐ対応しきれなくなる。
仕事でも遊びでも人生でも、複雑な事象、膨大な文脈の根底に流れる「哲学」を発見する旅だと思えば少し世界の見え方が変わるような気がしてる。