teruyastarはかく語りき

TVゲームを例に組織効率や人間関係を考える記事がメインのようだ。あと雑記。

人間は何かを「考えてる」わけじゃない

という思考実験


楽天 vs GIGAZINE」の敗者は「はてなー」 - kentultra1の日記
http://d.hatena.ne.jp/kentultra1/20090529/1243612037


それであらためて思ったのは、


楽天、利用者のメールアドレスを含む個人情報を「1件10円」でダウンロード販売していることが判明 - GIGAZINE」は、はてブを1000以上も集めてる訳だけど、ホッテントリなんて、実際にはタイトル位しか読まれてないんだなってこと。


つまり、はてブってのは、ド素人のようにタイトルに釣られて中身もろくに読まない連中が、タイトルに釣られて中身もろくに読まないままブクマしてカウントを伸ばしていく、ひでー集合愚システム


それをみて思ったのですけど、
なぜタイトルだけで中身もみず、「GIGAZINEざまあw」になるのかといえば
普段からGIGAZINEをよく思ってない人がいること。*1
加えて、GIGAZINEのやり過ぎを指摘したような記事がホッテントリにはいってたから
それを担保に中身も読まず「GIGAZINEざまあw」となったのかもしれません。



先に進む前に、[考える]というのをここでは、
『答えを見つけようとすること』
『真実を求めること』
と、定義しておきます。


バカの壁


じゃあ考えることができないというのは、
答えを見つけることや、真実を見つけることができないのかというと
そういうわけでもなくて
その人にとっての答えや、
その人にとっての真実は見つかるわけです。


何年か前のベストセラーで、バカの壁というのがありましたが、

「人間というものは、結局自分の脳に入ることしか理解できない」

と著者は言い、
つまり今回のGIGAZINEのことも、
どれだけ詳しく記事を読もうが、タイトルだけを読もうが、
自分にとって都合のいい解釈しかできない
ネガティブな反省をしたい人は、都合の言い解釈じゃないかもしれませんが、
それはそれでやはり自分が思うとおりの解釈になります。


真実はいつも一つ?


事実というのは一つですが、
『答え』や、 『真実』と言う解釈になると
立場や物の見方で、どのようにでも捉えられるからです。
その人にとっては、『事実』= 『答え』=『真実』とイコールでそれしかなくても
同じ事実が『事実』≠『他人の答え』≠『他人の真実』とイコールにならない。



仮にどこかで殺人事件が起きたとして、
その犯人が自分の恋人だったとします。
ここで事実は一つですが、自分や周りの関係者や親族や社会や、犯人も含めて
そそれぞれが出す答えも真実も違ってくるでしょう。
恋人を裏切ったと解釈するか、それでも愛してると言えるか、
例えどんな事情があっても自分の解釈だけは思うままです。
もし恋人自身すらそう思ってなくても。


記事の矛盾


元記事の揚げ足を取る形になりますが、

GIGAZINEひでー」って言ってるはてなーの多くは、「楽天、利用者のメールアドレスを含む個人情報を「1件10円」でダウンロード販売していることが判明 - GIGAZINE」のタイトルしか読んでない、少なくとも記事の中身はろくに読んでないという事なのかと理解した。そうでもなければ、同じ事を書いてる記事の片方を叩いて、片方に溜飲を下げるなんて、説明が付かない。


ふつう最初のGIGAZINE記事ブコメで賛同してしまった場合、
叩かれてる方の記事は、コメントを取り繕うか、前のコメントを消すとかしないと、
GIGAZINEひでー」とは書けません。
仮にネタで、賛同と非難を両方したひとがいても「はてなーの多く」にはならない。


なぜそういうミスリードをしてるかというと
kentultra1さん自身がはてなー及びはてブをそういうもんだと解釈したいのであって、
はてブのコメントに釣られてidもろくに確認しないまま、事実と、意図的な解釈をうまくまとめ上げた、ひでー情報操作記事
という解釈もまたひとつの真実なわけです。


あまりに自由すぎる、人間の解釈の幅


普通は社会通念や、道徳的な基盤に立って物を考え
法治国家では、法を絶対的な基準として守りますが、
真実や答えに基準があるというわけじゃない。


というのも弁護士や政治家は、堂々と法の解釈すら曲げることが可能で,
どこぞの国家は、いつでも正義の名の解釈で戦争を始めることができ、
社会通念や道徳の解釈を完全に書き換えたら、
宗教的な洗脳も可能になります。


この自由すぎる解釈は
正義とは何か、真実はどこへいったという話でもありません。


人は自分にとっての[真実]を自由に作り出している


脳は、今まで観て学んで体験した情報の組み合わせをする場所です。
しかしこのつじつま合わせ能力はバカの壁といわれるほどもの凄く強力。


これは盲目的になるとか、権力者のエゴのために使われるとも解釈できますが、
元々は人間が生きるために、
自分にとっての素晴らしい情報を作り出すための機能とも解釈できます。
社会的通念の良い方かつ自分に取っても都合良い解釈でも構わないわけです。


解釈に限界はない


最初に考えるという定義を
『答えを見つけようとすること』
『真実を求めること』
としましたが、
それは答えや真実ありきでそういう情報だけを探し集めて作りあげてるのであって、
たった一つの答えや真実がどこかにあって、
それを考えて見つけ出してるのではありません。


ここで解釈のパラドックスが起こると思うのですが、
それは重要ではないので構わず進めます。



僕が重要だと解釈したのは、自由に答えや真実を作り出している。
言い換えると、
自分から観た世界を自由に書き換えることができるということです。


半分しか水がない? 半分も水がある?


別にポジティブに捉えても、結局事実は一つじゃないか
気分をごまかしても水が増えるわけじゃあるまい,とか思いますよね?


でも強力に変えることのできる唯一の事実が隠れてるんです。
解釈というパラドックスを逆に利用してそこへアクセスする。

我思う、ゆえに我有り

そう、自分自身がどういう人間であるかという解釈は
パラドックスの先でこそ自由な書き換えが可能なんです。


自分を構成する事実


自分という事実は、タダのタンパク質の塊。
水分が70%
環境に脊髄反射して、
わずか60年で作られた現代日本の常識やルールに従う。
自分の限界も自分で定義する。


それはホントに事実ですが、自分が思う意識というのは
事実でありながら何の定義もされていない。


自分の意識が身体のどこに存在するとか、
心という臓器があるとか、そういう事実は一切ない。
パラドックスの中で、唯一自由に書き換えが可能な事実が
自分がどういう人間であるべきかという自由な解釈の事実。


世界の事実も変わる


止まって動かない物の事実は不変です。
しかし脳内がそうであるように、
社会がそうであるように、
経済がそうであるように、
家族がそうであるように、
世の中はアクセスした関係性の中に確かな事実を見いだします。


自分が笑ってようと、怒ってようと、富士山は富士山ですが、
自分が笑って人と接するときと、
自分が怒って人と接するとき、
アクセスする事実は大きく異なります。


自分をダメな奴だと定義して、その情報だけを集め続けるときと
自分を凄い奴だと定義して、その情報だけを集め続けるときとでは
アクセスする事実と結果は大きく異なります。


動きのない事実はどう意識しても変わりませんが、
世の中が関係性で成り立つ以上、
自分がアクセスする関係性だけは、自分の意識と近い解釈に変わる。
笑う人には、笑う人が集まり、
怒る人の相手も怒る人。
類が友を呼びよせます。


解釈には限界がある


それでも急激に意識は変化できないだろうという解釈です。
自分が何も知らない赤ちゃんならまだしも、
何十年と、自分の安全のために
常識と限界値を設定してきました。



この常識や、限界はもはや無意識レベルで発動してて、
その上で自分はこんなもんだという論理的思考を考えてしまいます。


だから無意識でも無理のないところから、パラドックス経由にアクセスしていく。
スーパーマンは無理でも最高の調子の時の自分に、
特に限界をしいてない得意分野に、
何が限界かわからない未知の分野に。



Don't think feel,,,
考えるんじゃない、自分がどうあればそこに調和するのか感じるんだ。

*1:嫌儲的なことだったり、あおり気味の文体やタイトルであったり、かつPVが多くて影響力あったりとかいろいろありそうですが