teruyastarはかく語りき

TVゲームを例に組織効率や人間関係を考える記事がメインのようだ。あと雑記。

ダブルスタンダードのススメ

あるいは、「一神教」から「多神教」へのススメ。

fujipon.hatenablog.com

 僕は、ネットで他者に話を聞いてもらうことの難しさを、最近あらためて痛感しています。

略)

 少しでも、ネットが居心地の良い場所になってくれると嬉しい、自分の存在が、砂一粒分くらいだけでも、世界にとってプラスになってほしい、ただ、それだけなんですよ、本当に。

 ネットは、コミュニケーションのための空間として、もう少し、進化できないのだろうか。こんなにすぐ繋がってしまう関係なのに、なんで、こんなに人の話を聞けなくなってしまうのだろうか。


これ、ダブルスタンダードを許さず正義感の強い「一神教」 同士の対立でしか起こらないんだよね。

一神教には自分が信じられる絶対真理(神、常識、正義)があるから、別の一神教の存在が許せないんだよ。それは自分の神の否定、自分自身の否定につながるから。

でもどちらの神も同時に存在しうる真理なんだよね。だからお互い枝葉の部分ばかり「ダブルスタンダード」だと言い争って、しまいに戦争になる。言葉は抽象度を上げ下げして切り取り方によってなんでもダブルスタンダードになるから言い争いに際限がない。

任天堂信者と、ソニー信者と、昔のセガ信者も、お互いの神を信じてるから相手は間違っている。据え置き機は一つに統一されたほうが都合がいい。ハードの置き場所もなければ、TVのスイッチを切り替えたり、ときには配線を差し替えなければいけない。同じハードでスプラトゥーンも、ファイナルファンタジーもやりたい。バトルフィールドなど参加人数の多さが大事なゲームなら、過疎らないようユーザーを分散させず一つに集めるべきだとなる。

これを多神教「八百万の神」として捉え、トリプルスタンダードを認めれば

「任天堂1強のときは、とんでもなくソフトロイヤリティが高くソフト価格は1万円を超えた。3社あったほうが健全な価格競争と、より大きな市場、より多彩なソフトが楽しめるから別に3つあっても、好きなハードを揃えればいいか。」となる。3つの宗教に同時に入信してもOKになる。

他人のダブルスタンダードを認めるということは、自分のダブルスタンダードを許せるということ。任天堂のソフトクオリティという唯一絶対の真理は間違って無くても、子供相手にソフト1万円超えはどうなのか? 自分の信じてた神はこの時代間違ってたのではないか? と、事の複雑性から自分の信念や過ちを省みることができる。

その時代において、規模において、状況において、立場においてさまざまに真理が同時に存在する。殺人が犯罪にも英雄にもなり、戦争が罪にも偉大な歴史にもなる。どちらも真実であり真理であり、両方成立すると考える。それが多神教的、ダブルスタンダード思考。

例えば俺は、はてブで攻撃されてる「kawango」を擁護したりサッカーの「田嶋会長」を擁護したり「ZOZO田端氏」を擁護したけど、彼らが批判される仮説の真理と、彼らが正しいという仮説の真理が共存しえると思ったから。

もちろんどこの関係者でもなれけば、ネットで話したことすらない。どっちも正しいという観測だからこそ、偏見やフィルターの少ない情報を集めることもできる。しかし一神教からすれば仮に田嶋会長から有利な真実が述べられたとして、ハリルが引く事態になっても田嶋会長を批判する真理は変わらない。

ダブルスタンダードを許せない正義感が強い一神教は、自分がダブルスタンダードにならないよう、謝る事はできない。手のひらを返し、間違ってたところを謝るとダブルスタンダードになってしまう。なので絶対崩れない仁義という真理を根拠に、もし決着がついたあとも、どこまでも批判し続ける。それは任天堂信者が絶対真理であるソフトクオリティを盾に任天堂のやることを全て許してきたように。だから一神教同士、ダブルスタンダードを許さない対立関係ではまともな議論にならない。

俺もブログでよく人格攻撃されることがある。
このブログは自己啓発系の記事が多かったので、
「人は何が何でも成功しなきゃいけないと苦しめる、ポジティブ教のクソマッチョ野郎」だと言われる。

ところが俺は、こっちの記事で「人は強くなければ生きてはいけない」と書いておきながら、次の記事で「人は優しくなければ生きていく資格がない」なんてダブルスタンダードを書き、次に「人は弱いからこそ弱者の気持ちを理解することができる」などトリプルスタンダードを平気で書いている。ひとつの記事内ですらそういう矛盾がたくさんある。でもそれでいい。どれも切り取り方、抽象度の違いで全て同時に存在する真実だから。

片方が正しければ、片方が間違ってるという一神教の世界ではない。
片方が正しくて、もう片方も正しい。それが多神教の思考。

俺がいわれのない批判
「こいつはkawango、田嶋、田端から100万もらって火消し擁護してるか、それぞれのクソ関係者としか思えない」と要旨から外れるようなことを言われたとする。

もちろん俺は知らんし、1日500PVのブログで1万でももらえたら凄いと否定する。
否定はするが、その人の視点は認める。
俺が3人から100万づつもらってないことを何も証明できないから。
相手が悪魔の証明を持ち出してきたら証明できなくてもそれを一度明確に否定するだけで充分。説明責任を果たすのはそこまで。それ以上はお互い証明できない妄想をぶつけ合う泥沼。

こういう話が飛びすぎたわけのわからない疑いや、文の読み違え、書いてないことを批判したり、書いてあることさえ無視して批判したりすることでも、はっきり否定はするものの、その視点とか、その人の信念、その人の書いてあることじゃなく、その人の言いたかったことは認める。結局こちらから証明できないものは、こちらの観測と関係なく真実になる。


そう、観測の問題。
俺という量子は、俺から観測したら俺の真実がある。
でも他人から観測したら、俺の量子はまた別の真実がある。
こっちから見たら「波」でも、あちらから見たら「点」であることは同時に存在し得る。
それを同時に扱うのがいい。
観測の一つだけを絶対真理の正義というのは正しいが、
また別の観測も絶対真理の正義で正しいのだ。
複雑な事象をどう扱うかが議論で、正しさを言い争うのは無駄。

だからまあブコメでいわれのない非難されたところで、それぞれの宗教、トラウマ、正義感は全部正しい。

実際に来たコメントだとこう。

今その話してないのに持論を早口で語り続ける人、仕事できなそう

返すとしたらこんな感じ。

うるせーよw
元記事が誰でもふわっと共感してツッコミ可能なうまい記事なんだよ。
まあ俺も失敗ばかりしてきて仕事できるなんて偉そうには言えないからそれはあってるが、一番レベル低いコメントに言われたくないわw

言われっぱなしはストレスたまるから返すとしたらこう。
軽口返すぐらいで、特別その人に怒ってるわけじゃない。
その人の「観測」に置いてそう見えるならそれは正しいことも認める。
記事になんらかの過去の自己投影を重ねて、ただ自分のストレスのはけ口としてコメントを利用してるだけの人も多い。多神教のダブルスタンダードではどれも正解なんでそれ以上怒る必要もない。

元記事が罵詈雑言に対して、なんでこんな論理的でない、記事をちゃんと読まないコメントがくるのかわからないと嘆いてるが、無神経な罵詈雑言も書いてあることや、前後の文脈から何の自己投影を重ねて、何がいいたいのかはなんとなくわかる。俺はそれらも一理あると認めたい。だからこそまともに言い争う必要はないと考える。

元記事の

はよ電池切れろ

という罵倒なんて

そのコメントで充電されんだよ

ぐらいの返しで充分かと。

 

tenshoku-web.jp
同日のホットエントリーにあったこれも一神教の話。
会社とか組織はそれだけでひとつの宗教でありその正義がある。
そりゃ宗教の教会に通うのに聖歌を歌いませんとはいかない。
宗教ルールに心の中でも逆うと「じゃあなんでこの宗教から給料もらってるんだ?」という自分の中の真理と激しいジレンマを起こす。


だからそこに入った限りは「飲みニケーション」や「日曜のゴミ拾い」に参加しろというわけではない。自分の正義感や信念、宗教にもとづいてそれは絶対間違った真理だと、正しくないことだと「敵視」するのがまずい。

「飲みニケーション」にも社員の本音を聞き出し、交流を深めて家族的な付き合いで阿吽の呼吸を強化したり、「日曜のゴミ拾い」も社宅として住む以上何かしら自分がまったく気づかない迷惑をかけてる可能性もあるのだから、地域の活動として普段からプラスの信頼貯金をしておく必要があるなと思えればいい。

そういう相手の宗教を認めた上で、やらないのはあり。
それは淡々と自分の信念を説明する。他宗教で自分の宗教貫くからには、文句を言わせない他の人よりも価値のある仕事をこなす。あるいは仕事がこなせなくても、待遇悪くなることを受け入れる。クビも覚悟で別にいい。宗教は違うことを主張しても、嫌う必要がない。

心の中で相手の宗教を否定していなければ「あいつはああいう奴だからほっとけ」という特別な空気を作り出すこともできる。心から自分の一神教の信念に反して、正義感に反して嫌だから、いろいろ態度や空気に出て心を病む。この部族で上手く立ち回れた同僚はトリプルスタンダードの多神教かもしれない。一神教の真理は一つでどっちが正しいかを考えるから、他宗教に従属すると深く正義感が傷つく。


一神教の正義感がまずいのは、積み上げてきた教典を変更できなくて老害化すること。これだけ熱中症が騒がれても、俺達の時代は平気だったとかルールが固定され、事件起こるまで時代に合わせて動けなくなる。

甲子園も高校球児をビジネスの食い物にしてはいけないという絶対的な真理があるおかげで複数球場の開催ができず、放映権料も0円のまま、チケットも安く、外野席は無料、甲子園自体も善意で0円。審判も球場整備もボランティア。ほとんどビジネスなしで動いてるため、ドームを借りる数億円が作れないまま、夏の連投を余儀なしのスケジュールしか組めなくなってる。

極端なのはキリスト教が聖書にのっとってLGBTを認めないところだ。多神教からはまったくもってバカバカしい。真理は時代に合わせて変えていい。自分の間違いを認め、手のひらを返し、真理のダブルスタンダード、観測の違いを両方正しいまま扱う事をススメる。

前に元記事と似たようなことを考え、はてなブックマーク見るのきついなあと悩んだ時たどり着いたのがこの多神教的、量子的、ダブルスタンダード。これで楽にはてブを見れるようになった。

ただこれは相手に話を聞いてもらうメソッドではない。
自分が相手の話を聞けるようになるメソッドであり、自分が悪意を受け取らないためのメソッド。それで自分ひとりでも楽になれば、世界は一人分だけ救われ、話を聞ける人が一人増えてプラスになるぐらいの考え。



元記事は、ネット上でどう議論していくかということにも触れている。
長くなったので、はてブ改善も合わせて次の記事に↓

 

「利害関係」と「信頼」が揃ってなければ「議論」は成り立たない - teruyastarはかく語りき